原田三郎右衛門の事蹟を調べるため対馬に渡った折、「戦前までは、島内の各学校で原田翁の遺徳を偲ぶ行事が行われていたと聞いています」という大森公善さん(長崎県立歴史民俗資料館研究員)の話を聞いた。
一生、孝行芋の普及に務め、元文5(1740)年8月5日に没した三郎右衛門の墓は、かつて厳原町久田道、潮雲庵にあった。
「久原村の東光寺境内の石碑に
表 面 享保年中於当島孝行芋植始
右側面 黒◆志連伊川於両所杉植立置
右側面 俗名三郎右衛門」と刻まれていた。
対馬では近年、原田三郎右衛門を顕彰する祭りが厳原町久田道にある光清寺(浄土真宗本願寺派、平山壽一住職)で開かれている。檀家が集まって三郎右衛門の遺徳を偲び、サツマイモを蒸して祭壇に捧げる行事である。
歌人である住職夫人、美智子さんは
「御門徒の培いし孝行芋をふかしおり三郎右ェ門を偲ぶ集いに」
と詠んでいる。同寺には「功煕軒釈穐芳居士」という法名を記した位牌を祀り、小高い丘には墓地もある。
「サツマイモの歴史を調べている方が時折、来ます。サツマイモ祭りを行いたいという沖縄の村役場の職員や、サツマイモの北限といわれる埼玉県川越市の方も見えられました」と平山住職は振り返る。
そもそも甘薯は中央アメリカの高原が原産地で、主食として広く栽培されていた。これが15世紀末、アメリカ大陸に渡ったコロンブスによってスペインに持ち帰られ、インドやフィリピンなどに伝わった。中国には16世紀末に福建省の商人によって導入され、凶作の年に真価を発揮し、“金薯 ”と呼ばれた。
日本には琉球を通して入り、これが17世紀初頭に薩摩と長崎に伝来した。薩摩伝来は薩摩の琉球入り(侵攻)による説を、民俗学者の宮本常一が出している。長崎にはイギリス商船によって運ばれた。
「朝鮮の料理書」(鄭大聲編訳、平凡社・東洋文庫)の年表には、「1763年 さつまいも伝来。姜必履が栽培を奨励、『甘薯譜』を著す」とある。
徐有▲(ソユグ)の「種藷譜」には「我東傳種、始于英宗乙酉(乾隆30年、西紀1765)來自日本、蓋香藷也、若山藷則未之見焉」のように伝来年を1765年としている。この誤差について、次のような説を小倉進平は立てている。
「甘藷の対馬から伝来したことは明かである。即ち「海槎日記」に之を乾隆28年としてあるのは間違の無い事と信ずる。唯『種藷譜』に『始于英宗乙酉來自日本』としてあって、前者よりも2年後れて居るやうに書いてあるのは一寸おかしいが、同書中『莱釜間必有傳種者』などあって、乙酉以前にも南鮮には之の藷のあったことをほのめかして居るし、又一方には藷種之傳於國中始此即乙酉歳也など、京城地方に藷の傳はったのが乙酉歳といふ風に明記してあるから、此の甘藷の朝鮮傳来は、まづ乾隆28年と見るのが穏當と思ふ。対馬で始めて之を栽植したのは我が正徳五年であるから、甘藷の朝鮮傳来は対馬に後るること約48年である」
(注)◆阜(こざとへん)に、彩の左側の字 ※【例】阪の右側に、彩の左側の字を置く
▲矩の下の木を置く