これには異説が一つ存在する。話はこうである。元禄の頃、平山左吉、内野市郎左衛門が郡奉行であったとき、琉球・薩摩にサツマイモが伝来し、その種子を長崎の奉行が求めた話を知った平山左吉、内野市郎左衛門は正徳4(1714)年、長崎の平田三左衛門を通じて甘薯の種子を取り寄せ上縣・下縣二郡で移植したが失敗に終わる。しかし、三郎右衛門は工夫をこらして、栽植法を見いだし、島内に広めていったという説である。

 

 ともかく原田の名前はあがった。実際にイナゴの大発生による災害で凶作となった享保17(1732)年、サツマイモが島民を救ったからである。三郎左衛門は農民で姓がなかったが、この功績によって原田姓を授かり、士分に引き立てられ、厳原に移り住む身分となった。飢饉を救った恩人に島民は各戸から若干ずつの金銭を出して「孝行芋銭」を出して三郎右衛門の子孫を養ったという。

 

 このことは朝鮮の書、「山林経済」にも掲載されている。京城帝国大学教授(後に東京帝国大学教授)だった小倉進平氏が「国語及朝鮮語のため」(京城・ウツボヤ書籍店、1921年刊行)の中で紹介している。

 

 「今信使之経対馬島佐須舗也、見青田弥望無際乃藷田也、倭之艫軍啖藷根以當朝夕、倭亦新得此種、猶未遍一國、其最初得之人自島中毎戸聚五文錢歳給此人報其功云」

 

 対馬での孝行芋栽培は軌道に乗り、他国に売りに出すまでになった。

 

 「御郡中の村々に孝行芋を植え候儀、年々相増候由に候間、近年の内には植覚え其節に至り候ては面々食用の余りを府中に売り候て売り余り候儀も之あるべく、他国売出しを願上げ、三郎右衛より口銭を願上候とも、口銭仰付らるべき事にては之なく云々」

=新対馬島誌編集委員会「新対馬島誌」1964年、336頁

 

 正徳五(1715)年に薩摩から移植して、対馬では栽培成果が年々、上がったきたのであろう。

 明治38年(1905)には三郎右衛門の出身地、上縣郡久原村の入り口に、井上義臣の筆になる「甘藷翁原田君之碑」を建立し、彼の功績を顕彰した。その経緯は「今や明治の大御代に際會し農事の発達に伴ひて翁の績は彌倍に光を加ふ嗚呼偉なる哉。茲に有志相圖り永く彰徳の碑を樹と云爾」と建久の経緯を記している。