朝鮮半島に最も近い国境の島、対馬。この島で三聖人といえば、郡奉行を務めた農経学者の陶山訥庵(すやま・とつあん)、儒学者であり朝鮮外交に尽くした雨森芳洲、それに儒学者の松浦霞沼である。

 訥庵は農政学者として対馬藩の経済を支え、五代将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」を布告したにもかかわらず、対馬では訥庵の指揮で大規模な猪狩りを行った。猪による畑作の被害が甚大だったからだ。江戸より千数百キロも離れた辺境の島の出来事は将軍の耳には届かなかったのであろう。対馬の猪狩りは事なきを得た。

 

 聖農政学者、訥庵は救荒作物としてサツマイモ(甘藷)に注目した。正徳五(一七一五)年に薩摩から隠密裏に得た種により移植に成功した。江戸では、蘭学者の青木昆陽が甘薯に注目し、「甘藷考」を著して、江戸町奉行大岡忠相を通じて将軍吉宗に献上した。

 甘薯の存在を吉宗は、すでに知っていた。享保8(1723)年、黄八丈という伝統織物を産する八丈島の島民が台風と飢餓で困窮している惨状を憂えて、サツマイモ、ハトムギなどを船便で送っている。吉宗は昆陽を薩摩芋御用掛に任命し、小石川の薬草園で甘薯栽培をするように命じた。

 甘薯栽培に成功した昆陽は種イモと栽培法を書いた「蕃藷考」の抜粋を作って配布し、江戸近郊を手初めに普及活動に励んだ。その結果、関東や東日本にサツマイモが広まった。彼が最初に種イモを配った千葉県花見川区幕張町には昆陽神社が建立されている。

 

 対馬の訥庵は昆陽よりも早く、サツマイモの存在価値の大きさに気づいた。「老農業類語」のなかにそれを著し、対馬八郷の村々に紹介した。それに感化されて動いたのが原田三郎右衛門(はらだ・さぶろうえもん、生年不詳~1740)である。どちらが言い出したのか知らないが、ともあれ三郎右衛門は薩摩へ走った。

 訥庵は農学者、宮崎安貞の「農学全書」に書かれたサツマイモの記事を見て、対馬の非常時、飢饉のときに甘薯が有益と知り、さっそく薩摩からサツマイモを取り寄せようとしたが、薩摩では他藩への持ち出しを禁止していた。何とかサツマイモを入手できないものかと苦心を重ねた訥庵は、原田三郎右衛門に依頼する。

 

 三郎右衛門は上縣郡久原村の貧農の二男。若いころから対馬の府内である厳原に出て放浪の生活をし、訥庵の家に出入りしていた。郷村で育った訥庵と心通うところがあったのであろう。意気に感じた三郎右衛門は隠密裡に薩摩に忍び込み、辛うじて甘薯の種を求めた。

 しかし、サツマイモは培養の時期を逸し、移植できなかった。対馬の痩せた土地も災いした。ここで訥庵と原田三郎右衛門は諦めなかった。再度、原田三郎右衛門は薩摩に密航して甘薯の種を入手し、対馬での移植の道を切り開いた。案の定、飢饉のときに役立ち、「孝行芋」といわれるようになる。