663年、百済復興の戦いが挫折した大きな要因は二つあった。これは、一時的なものではなく、後世にも影響を及ぼす病巣でもある。『街道をゆく2 韓のくに紀行』のなかで、司馬遼太郎が分析している。

 その一つ、百済復興軍(独立運動と、司馬はいっている)の内紛。王族の鬼室福信が配下の副将格の僧・道琛(どうちん)を殺し、次に独裁権を得て専横になった福信が、新王の豊璋によって殺された。

 

 これについて、司馬遼太郎は、こう分析する。

 「朝鮮人は一般に多くの美質をもっているが、その致命的な欠陥というのは、仲間と組んでしごとをする場合に相互の協調性に欠けていることであった。困難なときはよく協調する。しかし一陽来復すると苛烈な内輪もめをおこす」

 統率を執る部将の間で、ねたみ、やっかみが生じて、戦功のあった部将を讒言などによって引きずり下ろす。秀吉軍との開戦で連戦連勝した李舜水(イスンシン)が、そのいい例である。

 

 白村江の戦いで、日本軍(大和政権)の先鋒が敗戦した。唐の戦艦は、城楼のように大きいが、日本軍の船は木の葉のように小さかった。

 それなのに、「日本の水軍は恐れも知らずに全軍突入し、簡単に敗れた」(『韓のくに紀行』より)

 先鋒の敗戦から、中軍の諸将が導き出した戦略は、「たいしたことはあるまい」「わが軍が、それぞれ先を争って猛進すれば唐の水軍はしりぞくだろう」だった。

 

 司馬は、ここから「日本人のいくさの仕方は、この時代から本質として変わっていない」と分析する。

 戦争において、精神論を振り回す。士気こそ勝利に導く最大の要因というふうに。

 しかし、白村江の戦いでは、戦艦一つをとりだして分析しても、日本の劣勢は明白であった。

 「この当時、海戦にあっては舷側が高ければ高いほど有利であり、近づく小舟にむかって上から矢を射おろしたり、たいまつを投げこんだりすることができる」

 唐軍170隻、日本軍400余隻。数の上では、日本が上回っていたが、船の大きさ(外形)と構造が根本的に違っていた。日本軍の船は。海戦を想定してつくられたものではなかったのである。

 

 唐軍の劉仁軌は、総司令官の器らしく、船に上って水軍の指揮を執り、一糸乱れぬ戦いを進めている。日本軍は先を争って猪突しただけで、各船ばらばらであった。指揮系統があってないような状況だった。

 結局、日本軍は玉砕し、「四戦捷利、其ノ舟四百艘ヲ焚ク」「海水皆赤シ」の惨状を呈することになる。

 

 日露戦争で、ロシアの旅順要塞を奪還するため、乃木希典大将が軍司令として指揮した戦いも、まさにそれであった。兵士を無駄死にさせる、戦略がない戦いで、1万人以上の戦死者が出ている。戦況を憂慮して視察に訪れた満洲軍総参謀長の児玉源太郎は、これを知り、烈火のごとく怒っている。

 「単純な正面攻撃の繰り返し」「兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返した」など、指揮官たちへ無能論が突き付けられた。