学生時代に読んだ山口瞳の『小説・吉野秀雄先生』を、歌人・会津八一の『南京新唱』を手にしたことで急に思い出した。久々に開き傍線を引いた箇所をたどりながら、真の師弟関係とはこういうことをいうのかと改めて思った。

 その中に、吉野秀雄(群馬県高崎市出身)は妻はつに先立たれるが、42歳で生涯を閉じる前夜、はつが夫婦の交わりを求めた。それを百日忌を過ぎて、秀雄が三首の歌にした。

   「真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ」

   「これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹」

   「ひしがれてあいろもわかず堕地獄のやぶれかぶれに五体震わす」

 

 この歌と、後に秀雄は詩人八木重吉の未亡人、登美子と再婚するが、結婚式で誓詞代わりに彼は歌を詠みあげる。

   「この世に二人の妻と婚ひつれどふたりは我に一人なるのみ」

 この純粋な心情あふれる歌に、すすり泣く女性もいたといわれる。私は八木重吉の詩も好きだったし、そのため、残された登美子夫人が気になっていたのかもしれない。

 

 吉野秀雄は、会津八一の奈良を歌った『南京新唱』を読んで傾倒し、作品について教えを乞うた。すると八一は、分からなかったら奈良の現場に立て、読書をせよと突き放した。さらに、こう書いた。

 「歌は世界に類の無いほど短いものであればこそ、これは大切なことである。(中略)『万葉集』などをあけてみて、誰にも気がつかねばならぬことは、わずか五、六首の作者でも、なおその五、六首で、千年の今日まで睥睨(へいげい)している人もある」

 

 秀雄は八一に師事し、作歌はもとより、人間性を鍛えられる。時流におもねる軽薄さと、安逸な態度があれば弟子を真から怒り、破門状を送り付けるのが八一の常だった。そこには人はいかに生きるべきか、身をもって示した師がいた。

 八一は、門下生に対して「学規」をつくって励行させたという。その四つとは、次の通りである。

   一、ふかくこの生を愛すべし。

   一、かえりみて己(おのれ)を知るべし。

   一、学芸を以て性を養うべし。

   一、日々新面目あるべし。

 どうであろうか。この四項目の実践は難しいものであろうか。どんなことであれ、貫き通すことは大変なことである。秀雄は、この「学規」を部屋の壁に貼って、自身の甘えを戒め、歌道に励んでいった。「秀雄も彼らしい歌をつくるようになった」と、八一も認める成長ぶりを示すことになる。

 

 ここで、私は白川文字学として広く知られる白川静氏がいわれた、「学問の三つの骨法」にも興味をそそられる。

   一、志あるを要す。

   一、恒(つね)あるを要す。

   一、識あるを要す。

 二人の言葉には、時代は異なっても、学問には真摯に打ち込み、貫く姿勢が必要である、さらに言えば、その基礎に人間性鍛錬がなければいけないことを示していると思う。

 以上の話は、学生時代を思い出しながら書いた。