韓国には、一つの姓で統一された村がある。金氏の村、李氏の村…。旺谷村は咸と崔両氏の村である。お互いの顔が見える関係というか、村びとの結束力が強いところに特徴があった。しかし、辺鄙な地域を除くと、人口の移動によって現代ではこの構造も変容し、崩れているのではなかろうか。人は経済的な豊かさと便利さをもとめて、移動するのが常であるからである。

 

 それとは逆に、「うちの村には、これといったものが何もない」と嘆く、その何もないことを逆手にとって、忙しさに追われる都心部の人々を引き付ける村づくりで成功しているところもある。

 

 高城の旺谷村は、その範疇に入る村のようである。キャッチフレーズは、「時がゆっくりと流れる村」。

 『新・韓国風土記』第4巻、江原道を読んでいる。江原道は今日、夏は海水浴、秋は紅葉で知られる場所だが、古くは荒々しい山々に囲まれた、鄙びた地域と思われていた。しかし、古くこれを好む人がいて、都から隠遁生活を営む人達がいた。陶淵明の帰去来辞に出てくる帰郷であり、隠遁という意味が明確にあった。

 

 高麗時代から、江原道の自然に惹かれて、移住もしくは隠遁する人たちがいたことを、『新・韓国風土記』で知った。次のように描いている。

 李資謙が権勢を誇っていた時代に、その一族に連なる李資玄が春川の清平寺に隠遁したことや、『帝王韻記』を著して後世に伝えた李承休が、母方の里である三陟郡の頭陀山麓、亀洞に隠遁したことなどはその代表例といえよう。(中略)高麗末の著名な文臣元天錫は、高麗王朝が滅んでのち原州の雉岳山に隠遁し、朝鮮王朝の太宗(李芳遠)が訪ねて行っても面談を拒んだ昔話が伝わっている。

 

 特権階級ともいえる、経済的にも裕福な権門勢家の人達の生き方には、権力闘争に敗れた場合、隠遁という選択肢があった。ただ、一般庶民は、それとは異なる。