「うきことの猶この上に積もれかし 限りある身の力ためさん」と詠んだ、江戸初期の熊沢蕃山は陽明学者として生涯、社会・民のために尽くした。幕府ににらまれて、蟄居・謹慎の身になった彼を頼ってくる人を拒まなかった。

 朝鮮にも、熊沢蕃山と似た人物がいる。朝鮮王朝後期、実学の集成者といわれる丁若鏞(チョン・ヤギョン)である蕃山は岡山藩で名を上げたが、丁若鏞は正祖(チョンジョ、22代王)の右腕として、功績を残した。

 

 漢江に、舟橋を架けたことで知られる。舟橋とは、数多くの舟を鎖で連結させて、その上に木の板を載せた橋である。母・恵慶宮(ヘギョングン)洪氏の還暦を機に、父・思悼世子(サドセジャ)の墓に行幸し、水原に建設された華城お披露目を兼ねて、大規模な行列が、この舟橋を渡った。

 水原華城の城壁も、丁若鏞が起重器(キジュンギ)を工作して、見事な都城を作り上げた。正祖は、ここで晩年、政治を行おうという夢を描いていた。

 

 蕃山が幕府の儒者であり指南役である林羅山の讒言によって岡山藩を追われたように、丁若鏞も正祖亡き後、天主教(キリスト教)弾圧の巻き添えとなり、全羅南道の康津(カンジン)に流された。政敵は、「これで彼も終わりか」と嘲笑ったことだろう。

 しかし、丁若鏞は逆境をはねのけて、民衆の為に尽くすなど存在感を示した。役人の不正や怠慢を告発して、国の制度を抜本的に改革する必要性を訴えた『牧民心書』(全40巻)を完成させた。さらに疫病が流行ると処方箋を作って民衆を助けた。農業工作機の開発も手掛けた。

 

 流罪生活から」解放されると、政府は官職復帰を促すが、丁若鏞はこれを拒否して、執筆活動に専念した。この世を去るまで、500冊以上の書物を残したことを、かつて韓流ツアーで康津を訪ねた折、記念館で見学して、それを知った。万能の人、朝鮮のレオナルド・ダ・ヴィンチかと思ったほどである。

 

 意外なのは、朝鮮王朝時代の実学者の中で、最も日本に通じ、その関心と豊富な知識で抜きん出ていたことである。それを証明するのは『日本論』と『日本考』である。さらに、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台などの日本古学派について、深く研究し、「日本の学問が朝鮮を凌駕するまでに至っている」と主張している。

  流罪前に著わした『日本論』では、日本の軍事的脅威はあるものの再侵略はないと言っていたが、配流後は日本の再侵略を危惧するようになる。

 

 徳川将軍の代替わりごとに、慶賀の外交使節、朝鮮通信使が派遣されていたが、朝鮮王朝後期になると、1764年以来途絶える。その要因として、両国ともに凶作、自然災害、さらには治安の悪化があげている。日本側においては通信使迎接にかかる経費が大きな負担となっていた。

 いや、それ以外にも要因があると丁若鏞はいう。それは日本国内に、国学者をはじめとする民族主義的な思想が台頭して、朝鮮を見下し、下位国視する風潮を読み取っていた。

  

 通信使が途絶え、両国は政治的に疎遠となっていく傾向に、丁若鏞は危機意識を持ち、従来の日本観にも修正を加えて行く。日本再侵略の可能性あり、防備を堅固にせよ。そのような主張を込めた『日本考』と『民堡議』を著わした。

 丁若鏞の予言は奇しくも当たった。明治維新で近代化、富国強兵政策を進めた日本が朝鮮支配に乗り出し、朝鮮は亡国の道をたどったことが、何よりの証しである。