佐賀関(大分県大分市)の下浦漁港の一角に、「仲屋太郎吉」の大きな石碑が立っている。明治時代の漁民として、フカ釣、カジキ漁でその名をとどろかせた。漁具・漁船の改良で、漁獲高を上げると共に、漁民の身の安全を守る上で効果を上げた。

 仲屋太郎吉は、狭い豊後水道から太平洋へと乗り出すが、漁獲高を上げるその腕に各地で反発が強まった。そこで、中屋太郎吉は、朝鮮半島近海へ向かうことになる。

 その時代の漁民の歴史を描いた岡本達明編『近代民衆の記録7 漁民』(新人物往来社、1953年刊)は、仲屋太郎吉を知る上で、参考になった。

 

 これを読んで、明治時代の各地の漁民が、朝鮮半島に進出して多くの日本人村を築いたことを知った。中村均著『韓国巨文島にっぽん村』(中公新書)で、山口と愛媛の漁民がつくった日本人村について知っていたが、他にも日本各地から朝鮮半島を目指した漁民の多いことに驚いた。

かつて『唐津の中の朝鮮文化』(三岳出版社)に書いた佐賀村を通して、再度これをみてみたい。

 

 開国を求める西洋列強の威圧の前に、否応なく日本も朝鮮も、それに応じる。これを機に、漁業者も隣国へ押しかける。日本の在外公館があった釜山と影島を根拠に、漁業者は領域を広げていく。

明治12(1879)年を皮切りに済州島、元山、仁川、巨済島、莞島、木浦…。業業者は九州、四国、中国地方の人たちである。漁場を荒らされる朝鮮の漁業者は当然のこと、抗議の声を上げたと思うが…。1910年、朝鮮は日本の植民地となることで、なおさら商業者が大挙して半島に押し掛ける。漁業者はそれより前に、朝鮮沿岸に拠点をつくっているのである。

 

 1879年、済州島はどんな状況か。

 「長崎県潜水器漁業者が加波島根拠にて経営。15年大分県のフカ釣船は飛掲島根拠にて開始し、滞留1カ年半に及び、その傍ら雑貨商を経営したものもあった。後日之に倣って大分・山口県漁民の来島するものが多く、半移住漁村が成立した。」

=『近代民衆の記録7 漁民』の所載の〈資料〉朝鮮主要移住漁村年表より

 

 年表を読んでみても、朝鮮の地域住民とのもめごとや紛争は皆無である。本当だろうか?全羅南道の無人島、巨文島には山口と愛媛の漁業者が日本人村をつくり、日本の敗戦で引き揚げるまで、豊かな生活をしている。島を引き払うに当たり、漁具を含む生活道具をほとんど残したままにした。現地住民は、その後を受け継いで、それなりの生活が出来たのではないか。

 

 松浦郡の漁民も、朝鮮半島に進出した。明治42年、慶尚道の南海郡東面に「佐賀村」が形成された。

 「この年1月、佐賀県韓海出漁組合は此の地を同件東西松浦郡漁民の移住地と定め、漁家1棟、他に事務所・倉庫等を建設、同年4月金丸源一漁民と共に来住、大敷網経営、同年12月佐賀県韓海漁業会社を創立。45年手押サバ巾着開始、又、打瀬等をも経営す。一時百二、三十名を数えたが、漁獲物の処理が円滑さを欠き大部分引揚げ衰微、然るに大正5年林兼・山神組等の運搬船の来航によって復興、大正十年末戸口五十九、二百十二人、又、両手廻し機船サバ巾着の中心地トナッタガ、サバ漁業は衰微し、イワシ漁業の発展とによって、昭和七、八年頃からイワシ巾着に転向。」

  =同著、朝鮮主要移住漁村年表より

 

 以上のような、「佐賀村」の様子を伝えている。日本人村は漁業者の出身県をとって、例えば大分村、岡山村と命名して、漁獲高を競ったようである。年表を見る限り、松浦地方の漁業者は、朝鮮で成功していないようである。

 

 漁場を求めての朝鮮半島進出。日本の漁業者は臆することなく、海に乗り出し、隣国に活動拠点をつくりだした。現地での紛争はともかく、その開拓魂には驚いてしまう。