「古代史から日韓関係を考える会」1回目の歴史探訪で、前原の伊都国歴史博物館、平原遺跡を見て唐津(佐賀県)へ行ってきた。松浦佐用姫伝説に出てくる鏡山へ車で登り、眺望を楽しんだ(その後、辰野金吾記念館へ)。視線を手前の虹の松原から、壱岐へと向けると、歴史ロマンが蘇ってくる。ただ、その多くは戦火を想起させる日韓関係史に染まっている。

 最たるは、秀吉の朝鮮侵略である。肥前名護屋城から15万前後の大軍が2度(文禄・慶長の役)出兵した。唐津から壱岐へ、壱岐から対馬へ。さらに釜山へ。この経路が朝鮮半島の最短距離ある。唐津には、日韓関係を物語る史跡や遺物が多く残されている。

 

 JR唐津駅の近くに高徳寺がある。そこに、朝鮮の近代化を主導した金玉均(キム・オッキュン)からもらったという石煙草入れがある。どのような経緯をたどり、この寺にあるのか。

 高徳寺は朝鮮とかかわりが深い。創建にもよる。1585年(天正13)、釜山に渡り、釜山海高徳寺を創建した浄信(武士の出。織田信長の配下、元の名は奥村掃部介だった)は、秀吉の朝鮮侵略による戦火に遭って、帰国する。

 1601年(慶長6)、唐津城主の寺沢志摩守からの度重なる要請を受けて、釜山にあった高徳寺を移築するような形で、寺を再建している。

 

 そのような寺に生まれた奥村五百子(いをこ、1845~1907)も朝鮮と関わりが深い。植民地時代、朝鮮に渡った社会活動家として、その名を残している。朝鮮で仏教の布教を進める兄・圓心を後押しするため、彼女も朝鮮へ渡った。

 

 唐津駅前の商店街を歩くと、案内板に出合う。社会活動家とともに、愛国婦人会創設者という肩書も書かれていた。「北清事変社…」という一節もある。

 五百子は女傑である。尊王攘夷運動にも身を投じた、男装して長州藩に入ったこともある。朝鮮では、全羅道の光州に実業高校も創設している。

 「北清事変(義和団事件)後、兵士慰問や救護、遺族支援の必要性を訴え、明治34(1901)年、わが国最大規模の婦人団体愛国婦人会を創設した」

 

 朝鮮の開明派で、クーデター(甲申事変)を起こして政権を奪取した政治家・金玉均からもらった煙草入れが、彼女に贈られたものか、兄への贈り物なのか、確認していない。植民地統治した朝鮮で、何かの役割を担ったことは間違いない。それが、どんな意味をもっていたのか。唐津には、彼女のことを調べる韓国人も訪ねてくる。

 

 福岡県立図書館で、戦時中に発行された本を借りて来た。書名は『奥村五百子』。愛国婦人会、昭和9(1934)年3月刊。閉架式の書庫から出してくれた。

 五百子の名を有名にしたのは愛国婦人会を組織したことにある。愛国婦人会は、戦時下に産声をあげ、終戦とともに姿を消した、戦争の申し子のような存在であった。だから、現在、その存在は影が薄いし、表に出ることはない。 五百子の言葉にすると、こうなる。

「将来我が国の婦人が、大々的決心をもつて奮闘的献身的生活を成し、大いに我が国力を発展せしめ、殊に本会(注:愛国婦人会のこと)は今後益々発展せしめてその目的を貫徹しなければならない」=小笠原長生編著の『正伝 奥村五百子』=南方出版社、昭和17(1942)年刊より

 

 同書の巻頭グラビアのページには、愛国婦人会本部構内に建てられた「奥村刀自の銅像」、朝鮮・京城丸(現、ソウル)の東本願寺別院境内に立つ「奥村五百子手堀井戸記念碑」などが紹介されていた。彼女は愛国婦人会結成に伴い、全国各地で講演会に出掛け、戦時下の婦人の使命を訴え、愛国婦人会参加を呼び掛けている。光州で実業高校を設立したというので、朝鮮に深くかかわっているかと思ったら、そうではない。『正伝 奥村五百子』に巻末に記された彼女の年譜には、こうある。

 

 明治30年(53歳) 時事に感ずる所あり、6月3日兄圓心と共に上洛の途に就く。7日、東本願寺京都事務所に出頭、韓国布教の事等三ケ條を申請す。法主光寶伯より東上の命あり、刀自は貴婦人会の組織を嘱せらる。近衛篤麿公、圓心に東邦の大勢を告ぐ。9月22日、圓心全羅南道の光州に入る。布教地に於ける兄の困苦を頒たんと欲し、刀自亦10月14日光州に到る。光州に実業学校設立の要件を帯び、同月21日発、帰朝の途に就く。

 

 光州実業高校を開設したのは、朝鮮の農業が日本に比べて遅れている実情を目にし、憂えたからである。帰国後、関係官庁に訴え、協力を得て実現させた。五百子が真心と行動力で抜きん出た稀有な女性であることが、この一件からも分かる。

 

 愛国婦人会の活動家として知られる五百子は、地元唐津の近代化にも貢献した。松浦橋の架橋や、石炭運搬のための鉄道の敷設や、唐津港の整備に尽くしている。唐津版「明治維新150年事業」のシンボルとして、市が発表した「唐津八偉人」に五百子も入っていた。

 明治時代、日本国内で大きな光芒を放った奥村五百子は、唐津の生んだ女傑として、後世に語り継がれているのであろう。