『論語と算盤(そろばん)』はいうまでもなく、明治の実業家、渋沢栄一の著作である。渋沢は座右の書とした論語を読んで、それをどう自身の生き方にしてきたか、事業に反映してきたかが描かれている。

 福沢諭吉に代わり、新1万円札が7月に登場する。その顔が渋沢栄一である。これについて、韓国メディアは植民地時代は発行された渋沢を図柄にした紙幣発行にからんで、批判的に報じたことがあった。

 聯合ニュースは、当時、大韓帝国下、第一銀行頭取だった渋沢栄一を『朝鮮半島を経済侵奪した象徴的な人物」と伝えている。

 

 果たして、そうか。表層的な把握に終わっていないか。韓国の人には、渋沢の『論語と算盤』を読んでほしい。彼は社会のインフラ整備に広くかかわり、多分野で活躍した。教育、医療、福祉など社会事業にも打ち込んだ。゙資本主義の父゙と呼ばれるが、私利私欲という言葉からは遠い。

 なぜか。業界のボス企業のオーナーに留まることなく、滅私奉公の姿勢で、新たな事業に挑み続けた男であるからだ。

 

 渋沢栄一の生地、埼玉県深谷市には記念館があるが、近年、この一帯は論語の里として整備されていると聞く。記念館には、渋沢一族の系図が紹介しているはずだが、栄一の遺志を引き継いだのは、彼の息子でなく、孫の敬三であった。息子は放蕩者であり、彼の意にかなっていなかった。それで、孫に託した。

 渋沢一族については、ノンフィクション作家・佐野眞一氏の『渋沢家三代』(文春新書)に描かれている。敬三は財界で活躍し、大戦中に幣原内閣のとき大蔵大臣にもなったことから戦犯として裁かれている。実業家の顔で知られる敬三だが、本来、志望していた民俗学学会で彼は貢献した。東京・港区三田にアチック・ミューゼアムを作り、スカウトした研究者を全国各地に派遣して、調査に従事させた。研究者のなかには、宮本常一(山口県周防大島出身)など、日本の地方の発展に寄与した人物が輩出した。

 

 宮本の自叙伝『民俗学の旅』(文藝春秋、1978年刊)には、敬三から聞いた話が幾つも紹介されている。宮本の人生の指針となった、金言のようでもある。二、三紹介したい。

 

「君には学者になってもらいたくない。学者はたくさんいる。しかし本当の学問が育つためにはよい学問的な資料が必要だ。その資料―とくに」民俗学はその資料が乏しい。君はその発掘者になってもらいたい。こういう作業は苦労ばかり多くてむくいられることはすくない。しかし君はそれに耐えていける人だと思う」

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見て行くことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落としたものの中に大事なものがある。それを見つけていくことだ」

 こういった敬三のアドバイスを宮本は忘れずに、しっかり身に付けて調査・研究を進めて行った。

 

 一方、実業家として大きな足跡を残した敬三は、『豆州内浦漁民史料』や『日本魚名集覧』『明治文化史』などを著わしている。民俗学発展のために、 日本民族学協会 を興して会長を務めた。また戦後には、六学会連合 (現九学会連合) を組織して、幅広い人文科学の学際的協業を押し進めたことも忘れてはならない。

 

 宮本は23年の長きにわたり、三田の渋沢邸で世話になった。敬三は「わが食客は日本一」という文章を雑誌に書いている。宮本は54歳で、食客生活を終えた。妻子を郷里の周防大島に残し、離れ離れの生活を、その間続けたことになる。晩年、都内府中市に家を買って、郷里から妻や子供を呼び寄せて、やっと普通の生活を始めている。

 

  渋沢敬三あっての、宮本常一である。宮本の人生は、敬三との出会いによって定まったといえる。

「渋沢先生の期待し希求したものに対して私個人は決して十分におこたえしてはいないが、先生の残された学問方法の進展につくすことが私に道だと思って今もその道を歩いている」(『民俗学の旅』より)