国勢を国王とその取り巻き連中だけに任せることはできない。開国後、こういって立ち上がった男がいる。徐載弼(ソ・ジェピル、1866~1951)である。彼は独立協会を起こし、直接民主主義的な万民共同会という組織の下に、官僚や民衆を集め、政権批判を行った。

 日本で、慶応義塾や陸軍戸山学校で学び、一時帰国。開化派の3日天下、甲申政変で日本を経てアメリカに亡命。自由民権主義者として帰国。さっそく、朝鮮語と英語で「独立新聞」を発刊した。

 

 ロシア公使館にいた高宗(コジョン、第26代王)に謁見。独立国の君主として他国の公使館にいるのはよくないと、王宮への帰還を訴えてもいる。

 万民共同会で決議した上疏文を政府に突きつける。その内容は、①自主独立、②民権、

③反外勢を唱え、④官僚の腐敗を攻撃する、など下からの近代化を求める改革案が入っていた。

 

 激烈で急進的といわれる万民共同会。今日からすれば、きわめて常識的である。『独立新聞』に、例えばこうある。

・女性問題について

 「自分の行いが悪ければ妻を責める権利はない。朝鮮の男性のなかに淫らな行為があるか、妾をもっているようなことがあるなら、いま女性を裁いている法律で裁くのがとうぜんである」

・国際関係について

「清国に頼るな。僕か召使になるに過ぎない。日本に頼るな。内臓を失うであろう。露国に頼るな。ついに体もろとも飲み込まれるであろう」

 

 万民共同会の抗議によって、ロシア人の財政顧問や軍事顧問が解雇されたし、国王が375日ぶりに王宮に帰ってきた。

 

 独立協会に対する恐怖から、朝鮮王朝内部の旧勢力は妨害に乗り出した。民権運動が拡大することを、王室は憂えた。「君権」に対する「民権」の脅威といえる。

 当時のソウルの総人口は30万人だったが、万民共同会の大討論会には、実に1万人もの人びとが参加した。この直接民主主意義的な組織が全国に波及することに、統治者は革命前夜のような脅威を覚えた。もちろん、これを弾圧し、解散させる方法をとった。

 この独立協会運動は、朝鮮において大きな歴史的な意味をもつものであった。朝鮮にとって、日清戦争は、近代化された国の力をみせつけたものに他ならなかったか。日清戦争以後、朝鮮の知識人たちは、近代文明を受容しないでは生き残れないことを深く自覚し、啓蒙運動や教育運動へと走っていく。