日本に亡命してきた金玉均(キムオッキュン)を、どうやら福沢諭吉はもてあましてしまう。それが証拠に、金玉均は北海道から小笠原などと辺境に追いやられ、朝鮮の刺客に誘い出されて上海に渡り、そこで洪鍾宇の銃弾によって射殺されてしまった。

 この悲報に接した福沢は「東洋百年の大計を、策せし友を失へり、と天を仰いで嘆きけり」(近藤吉雄著『井上角五郎先生伝』より)といった心境で陥った。

 

  それほど福沢は、朝鮮独立に燃える金玉均の役割に期待していた。福沢にとって、独立党の敗北は、朝鮮の文明開化に抗する守旧派の頑迷さを恨む結果をもたらした。彼の失望は、とてつもなく大きかった。

 福沢は無念の思いと怒りを抑えることができず、『時事新報』に脱亜論を発表した。

 

 「我国は隣国の開明を待て亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈の及ばず…」

 「悪友を親しむ者は悪名を免かる可からず。我らは心に於て亜細亜東方の悪友を拒絶するものなり」

 

 ここには、福沢の無念さがにじみ出ている。彼は朝鮮人に独立を指向する気風が乏しいことを嘆いた。この脱亜論が後世、アジアにおける福沢の評価を下げることにつながった。しかし、朝鮮支配をうかがう長州閥には、追い風となっていく。

 この脱亜論が時事新報に掲載されたとき、慶應義塾内では、福沢先生は朝鮮に惚れているという感想も出たほどである。

 

 当時、朝鮮が欧米列強の圧力に抗して生き残るには、文明開化・近代化の道に賭けるしかなかったと福沢は金玉均同様に考えていたが、朝鮮の守旧派の壁は余りにも厚かった。福沢が近代化を妨げる標的にした儒教が、朝鮮を蝕んでいた。

 

 朝鮮の開化思想に詳しい姜在彦(カンゼオン)氏は、『西洋と朝鮮』(文藝春秋)のなかで、その背景を次のように説明している。

 「朝鮮儒教『重文軽武』の思想は、結果的には『西器』の導入による国防的関心に麻痺させてしまった。『文』による言論(上訴や檄文)がいかに激烈であろうとも、それで国権を守れるものではない」

 「前近代における幕府の洋学校や、民間の洋学塾は朝鮮に全くないものであって、朝鮮の教育が余りにも儒教一辺倒であったばかりでなく、『学統』(孔子→孟子→程子→朱子)にしばられすぎて、硬直化してしまった」

 

 福沢は、失敗に終わった甲申事変、金玉均の非業の死を通じて、朝鮮から手をひくことになる。しかし、『時事新報』に載せた脱亜論は、日朝関係に大きな影響を及ぼすことになる。