東京・青山霊園(外国人墓地)にある朝鮮独立党・金玉均(キムオッキュン)の墓に、先日、友人が墓参りしている。この墓を建てたのは、犬養毅(第29代内閣総理大臣)、玄洋社の頭山満らであった。生前、付き合いがあり、明治維新にならった朝鮮近代化に立ち上がった金玉均を支援した。墓には彼の遺髪、衣服の一部が収められている。

 金玉均は上海に誘い出されて、刺客・洪鍾宇(ホンジョンウ)に暗殺された。遺体は朝鮮に運ばれてばらばらにされ、晒されている。

 

 彼の死を惜しで福沢諭吉が建てた墓碑が、本郷駒込の真浄寺にもある。ばらばらにされた金玉均の首は南大門に晒された。このとき、京城(現、ソウル)で写真業を営んでいた長崎出身の甲斐軍治が持ち帰った金玉均の遺骨の一部と毛髪が、福沢の手元に届いた。福沢は本郷駒込の真浄寺に埋葬し、墓碑を立てて供養している。

 

 福沢諭吉と金玉均の関係は深い。金玉均の死をもって、福沢は日朝関係に大きな影を落とす「脱亜入欧」を表明することになる。

 福沢は、金玉均の要請に応え朝鮮の文明開化・独立を熱烈に支援した。朝鮮開化派(独立党)の朴泳孝(パクヨンヒョ)の『改革建白書』や兪吉濬(ユキルジュン)の『西洋見聞』には、福沢の著作の影響がみられる。彼らは日本から学んだ改革政策をもとに開化策を推進したが、政府内の、頑なに鎖国・攘夷を貫く閔氏一派を抑えることができなかった。その反対勢力の筆頭が国王・高宗の父親であった興宣大院君(フンソンテウォングン)であった。

 

 朝鮮修信使を通じて独立党を組織した金玉均は、日本で300万円借款の夢が叶わず、打ちひしがれて帰国した1884年、日本軍の力を借りてクーデターを起こした。徐載弼の手記には、こうある。

 「皇帝およびその一族を強制的にでも宮廷内の腐爛した周囲から救い出して、あらゆる因習と弊風を改革するための新勅令をださすための計画」

 

 金玉均らの独立党は、政権を牛耳っていた事大党の中心勢力であった閔氏一派を追放し、新政権・開化党内閣を起ち上げた。しかし、直後にソウルに駐屯していた清国軍が武力介入し、三日天下に終わってしまう。これが甲申(カプシン)事変である。

 

 失敗に帰した原因は、開化思想の啓蒙が一部のエリートに留まり、市民にまで及ばなかったことにあった。クーデターを企てた金玉均、朴泳孝らは日本に亡命して、福沢の庇護を受けたが、家族は悲惨な目に遇った。父は死刑、母は自殺、弟は獄死の道をたどっている。