韓国の文化心理学者ハン・ミン氏が書いた『線を越える韓国人 線を引く日本人』(飛鳥新社)に、「合唱する韓国人VS鑑賞する日本人」という項目がある。コンサートで、両国民の聴く姿勢について比較している。どう違うか。日本人は歌手の歌を聴きに行くという姿勢、韓国人は興に乗って楽しむ。なんとも対照的な、と思う。

 

 これは舞台劇を見る場合にもいえる。かつて韓国で知られる無言劇ジャンプのメンバーから「大阪で公演したとき、お客さんの反応がつかめない。会場が静か過ぎるのに戸惑った」「韓国で公演すると、観客の乗りがいい。体で、声で反応してくれるから」と話していたのを思い出す。

「現在でも伝統的な仮面劇やマダン劇でよく見られるこのような場面は、はるか昔からの韓国の公演文化でした」(ハン・ミン氏)。舞台の演者と観客との掛け合い、一体感が特性となっている。

 

 考古学者・森浩一著『倭人伝を読みなおす』に触発されて、『魏志』東夷伝の韓伝記(弁辰の条)を読んだところ、現代の韓国人に通じる姿を見た感じがした。こうある。

 「五月の播種が終わって鬼神を祭るとき、群生が集まって歌舞をし酒を飲むこと昼夜にわたった。躍るときは数十人がいっしょに起立し、たがいに従って地を踏み、手足を上げたり下げたりしながらリズムにあわせて舞っているのは、鈬舞(たくぶ)に似ていた。十月の農事が終わると。またこれを繰り返した。(以下省略)」

 『魏志』倭人伝には、韓伝のような、細かい祭天儀礼の記述はない。魏使には、とても印象に残った場面だったのであろう。

この祭天儀礼を現代に重ねると、韓民族の特性は今も昔も変わらないように思える。

 

 ある韓流ファンが、こういっていた。「韓国の歌謡ショーの公演会場に、私も一度、入ってみたい。田舎でやっている公演を見ていると、歌手と観客が一緒に唄う、あの一体感がたまらない。私も味わってみたい」、と。

 「韓国人は自分と他人との間の境界をいつでも行ったり来りできると考えている」ハン・ミン氏の、この言葉から韓国の国民性を感じる。

 

 これは韓国語の「オジラプ」にも表れている。もともとの意味は「前裾が広い」だが、ここから転じて「他人のことに過度に口を出す」という意味でつかわれている。日本では、「オジラプ」では嫌われるのではないか。「少しは慎みなさいよ」と。