植民地時代の京城(現、ソウル)で、日本は朝鮮の都をどう改造したのか。気になった。36年間も支配したのだから、都市が大きく変わったはずである。これを読み解く上で参考になるのは、租界班第52回研究会で、漢陽大客員教授の冨井正憲氏が発表した「京城『モダン』の地図を読む」という報告である。

 

 ここで冨井氏が活用したのが、京城時代の3種の地図。①三重出版社京城支店発行の『京城精密地図』(1933年発行)、②吉田初三郎が描いた「朝鮮博覧会図絵」(1929年)、③小野三正が製作した「大京城府大観」鳥観図(1936年)である。

3点を見て、特に印象に残ったのが②である。漢江に橋が2つ架かり、京城の市街地へと通じるが、それをデフォルメした上、色彩豊かに俯瞰的に描いている。

 何か観光絵図のようなである。それもそのはず、これは朝鮮総督府が施政20周年を記念して開いた朝鮮博覧会用に製作した絵図である。

 

 1910年に朝鮮を植民地支配(韓国併合)した日本は、1915年に「始政5年 朝鮮物産共進会」、29年にはこの「朝鮮博覧会」、さらに40年には「始政30周年記念 朝鮮大博覧会」を開催している。

 博覧会及び共進会開催の意図として、朝鮮総督府は植民統治の成果をアピールしようとした。

 「特に朝鮮人には新旧施政を比較対照する方法を通して日本がいかに優れているかということを理解させ、また内地人には植民地開拓の必要性と実相を見せる」(李泰文・慶応大講師の「1915年『朝鮮物産共進会』の構成と内容」より)

 そのような意義が込められていた。

 

 植民地時代、京城には10万人を超える日本人が住んだ。姜在彦著『ソウル』によると、1935年、京城の人口は40万4202人で、このうち28%が日本人だった。

 朝鮮半島に敷設された縦断鉄道はユーラシア大陸へと伸び、欧州まで続いた。これを利用して観光に出かける人も少なからずいた。作家の林芙美子もその一人である。

 博覧会には、日本人によって近代化された京城をアピールすることで、日本人観光客を京城に呼び込む意図もあったと推測する。

 

 朝鮮王朝を建国した李成桂(イソンゲ)によって築かれた城郭はそのままに、これによって取り囲まれた京城の市街地は、日本によって大きく二分された。

 東西に走る黄金町通り(現在の乙支路)を境に、北側は朝鮮人街、南側は日本人街に色分けされていた。

 北側は「洞」という地名を残した地域で、平屋建ての朝鮮家屋で埋まっていた。南側は日本流の「○○町」と「町」いう地名が新しくつけられ、主に2階建ての日本家屋で多くが占められていた。南山には皇民政策に寄与する朝鮮神社まで建てられた。

 

 その境目辺りに、東京駅生みの親として知られる辰野金吾が設計した西洋風、煉瓦造りの朝鮮銀行(現、韓国銀行貨幣金融博物館)が立っていた。

 ただし、5つの広大な王宮が広がる北側には、朝鮮総督府の洋風建物が朝鮮統治の象徴として、威圧的な構えを誇示していた。

 「この頃の京城府の総住戸数はおよそ12万戸であり、このうち4軒に1軒を日本人住宅が占めるまでになっていた」(冨井正憲氏)

 

 以上、簡単に京城の市街地を描いてきたが、日本人による京城改造は「モダン」ではあったのかも知れないが、問題は当時の朝鮮人がどのような反応を示したかである。共感・評価と反感・否定のどちらが大勢を占めていたか。恐らく、後者であろう。ここに、時代の光と陰が読み取れるのは言うまでもない、

 

 これを書いたのは、近く「古代史から日韓関係を考える会」が行なう歴史探訪の参考にと思ったからである。この日帰り旅で、唐津で辰野金吾記念館を見学することになっている。