夏目漱石の『三四郎』を読んでいる。熊本から東京へ、大学入学のため列車に乗って上京するシーンから始まる。数ページめくると、かつて読んだ記憶が蘇って来た。小説といえば、主に歴史小説に親しんできたため、どうも物語のテンポに馴染めない。50ページほど読んで、巻末の年表を開いた。

 

 小説家・漱石を、一人の人間として見た場合、短命であり、病魔と闘った壮絶な生涯であることを知った。

 明治43年(1910)=43歳 8月24日夜、大吐血、一時危篤状態に陥る

 44歳 大阪で胃潰瘍が再発し湯川病院に入院した。

 46歳 3月末、胃潰瘍で臥床

 48歳 3月、京都に遊び胃潰瘍で臥床す、

 49歳 11月22日、胃潰瘍で臥床。病状悪化。28日大内出血。12月2日、第2回の大内出血により絶対安静。9日午後6時45分永眠。

 

 49年の生涯のうち、晩年は病魔との闘いであった。しかし、晩年が漱石文学が大きく開花した時期だった。

 40歳で、一切の教職を辞して、朝日新聞社に入社し、新聞小説家として生活したことから、漱石の代表作は朝日新聞に掲載した連載小説として、広く読まれた。『虞美人草』『坑夫』『夢十夜』『それから』『門』『彼岸過迄』『こころ』『道草』『明暗』など、主な漱石作品は新聞小説に依っている。

 

 漱石の元には、多くの文化人が出入りしている。漱石38歳ごろから寺田寅彦、鈴木三重吉、野上豊一郎の諸氏が、48歳のときには久米正雄、芥川龍之介両氏も、入門している。

 漱石は、それほど人望が厚かった。どうも私塾のような様相を呈している。

 

 小説家として文名をあげた漱石だが、社会と自己を常に念頭に批評活動も行っている。最後の評論は、ドイツ独裁主義を批判した『点頭録』であり、「創作家の態度」「現代日本の開化」などを通して、その視座が読み取れる。

 

 漱石は、朝鮮をどう見ていたか。その一端を知ることができるのは、42歳のとき、満鉄総裁中村是公の招待で満州各地を旅行したときのことである。途中、京城(現、ソウル)で下車し、植民地となった朝鮮の都に足を止めている。そのとき、想起したのが閔妃暗殺で、漱石は同情を禁じ得ないといった言葉を残している。

 近年、発見された漱石の書簡の中に、そう書かれていたと朝日新聞が報じていた。それが、今でも記憶に残っている。

 

 私には漱石の小説ではなく、評論が性に合っているようである。それを読むには、図書館で漱石全集を探し出して、開くしかないようである。