好太王碑(中国吉林省)に刻まれた「辛卯年の記事」(辛卯年に倭が海を越えて百済と新羅を征服し、臣民とした)を巡って、1972年、在日の研究者・李進熙(イジンヒ)氏が、近代日本の朝鮮進出を正当化するため「旧陸軍が改変した」と主張した。   

 ご存知のように、改竄論争である。この発言以来、30数年間、古代史学会は揺れ続けた。

 

 それが決着したかのように思われたのが、新な拓本を通して、分析した中国社会科学院の徐建新教授の見解である。2006年、改竄説を否定した。徐教授は中国の学術誌「中国史研究」に論文を発表し、2006年には『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)にまとめた。

 

 ここで、好太王碑について、おさらいをしておきたい。

 好太王碑は、高句麗広開土大王の業績を記録した石碑である。現在、中国・吉林省集安市にある。高句麗滅亡後は忘れられていたが、1875年に発見された。朝鮮半島で一番大きな石碑で、4面に1802文字が記録されている。

 414年(長壽王2)、広開太王が新土太王の息子である長壽王が父の業績をたたえるために建てた石碑で、高句麗建国の過程や、広開土太王の事業を年代順に刻む。新羅王奈勿麻立干の援軍要請により、4世紀に5万の兵を率いて倭の勢力を退けたことや、北方の東夫余を征服し、西方の後燕を撃破し遼東を占領すると同時に、南は漢江まで進出したという内容が記されている。

この碑文の内容のうち、で改竄と問題にされた箇所は、「辛卯年の記事」である。「391年以来、倭が海を渡って、百済と新羅を破り、臣民とした」とある部分である。

 

 改竄論争の過程で、韓国側の見解も、当然明らかにされたと思う。それを改めて知りたいが、『年表で見る韓国の歴史』(金徳珍著、藤井正昭訳)には、何も書かれていない。

 日本では、『日本書紀』などの記事にあるため。倭の朝鮮半島出兵が信憑性を帯びた。

 

 391年とその前後、半島で何があったか。

   385年、高句麗、遼東郡と玄兎郡を襲撃する

   391年 広開土王が19代王に即位。平壌に9寺刹創建

   392年 新羅、高句麗と親睦を図る(人質を送る)

   395年 高句麗、碑麗(契丹)を征伐

 これぐらいしか、知ることはできない。倭が攻めて来たという記述はない。

 

 「辛卯年の記事」は、確かにあった歴史事象をとらえた記事なのか。これは、新羅王奈勿麻立干の援軍要請により、4世紀に5万の兵を率いて倭の勢力を退けたことであるのか。

 そもそも倭とは、どの地域のことなのか。日本の倭国なのか。高句麗が4,5万の兵を動員して退けた、倭の勢力はどこから来たのか。