魏志倭人伝に出てくる伊都国探訪の参考にしようと、考古学者の森浩一さん(同志社大学名誉教授)の『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)を開いている。新聞記者時代に電話で話し、福岡での講演会にも参加したが、親しみのわく考古学者であった。

地方の研究者の論考や著作にも目を配らせている、視野の広さは、大分県教育委員会の真野和夫さんが退職記念に自費出版した『邪馬台国論争の終焉』を、「快挙である」と紹介している箇所にも表れている。

 

「この本は北部九州の弥生時代の遺跡を細かく検討したうえで、倭人伝の国々を北部九州に推定し、邪馬台国を八女(昔の上妻郡)の周辺とみた。ぼくと細部では意見の違う箇所もあるが、真野氏の方法論は着実だとおもった」

 

 森浩一さんが1989年4月1日、鳥栖市(佐賀県)で開かれた吉野ケ里遺跡初のシンポで司会・進行役を務めた森さんは、「考古学は地域に勇気を与える」といった。これが一時流行ったと振り返っている。

 これは邪馬台国論争をめぐり、九州で最初に候補地として騒がれた山門郡瀬高町(現、みやま市)で、10年ほど前に郷土史談会のメンバーに会ったとき、感じた。

 その頃、地域にはすでに邪馬台国論争で外れたような、沈滞したムードにあったが、彼らは「なんの」と意気盛んに研究に励んでいた。「考古学は地域に勇気を与える」は、生きていた。

 

 伊都国探訪は、森浩一さんの同書と、奥野正男さんの『邪馬台国紀行』(海鳥社)を参考に、回りたいと思う。

 

 邪馬台国論争で、意外な研究者が関西にいた。沖浦和光さん(桃山学院大学名誉教授)である。かつて前原(福岡県)で講演したとき、大型観光バスにびっしりファンを連れて、会場入りした。サンカなどで、新しい社会思想史研究を切り開いたユニークな視点は、多くの人をひきつけていたことを知った。どのような邪馬台国論を話したのだろうか。