「沖縄の中の朝鮮文化」探訪ツアーを、2泊3日で行ったことがある。那覇市内を中心に、沖縄に残る朝鮮との交流の痕跡を探訪する。旅程をつくる過程で、資料をいろいろ読み、浮世絵師の葛飾北斎(1760~1849)が「琉球八景」を描いていることを知った。

 

 北斎72歳のときの作品。この中に三重城(グスク)がある。那覇港の一帯を描いた「臨海湖声」のなかにある。

 沖縄はかつて独立国だった。琉球王国である。諸外国との貿易で栄えた海上王国であった。そのとき、那覇港には、海外の船が出入りした。それを監視する役人が、三重城にいた。葛飾北斎は、三重城を含む那覇港を描いている。

 

 時代を遡り、室町時代。朝鮮半島の沿岸部を中心に、略奪を働く倭寇を抑えようと、朝鮮王朝は幕府に懐柔策を願い出る。その使節は、朝鮮通信使と呼ばれた。江戸時代に先立ち、通信使が玄界灘を渡って来日した。その正使に李芸(イ・イェ)がいた。蔚山(ウルサン)出身。8歳のとき、蔚山を襲ってきた倭寇に母親を連れ去られた李芸は出世して、外交官になると、日本に来る度に母親の消息を探した。

 1416年、朝鮮王朝が派遣した使節を率いて、琉球にも来ている。そのとき、入港したのが那覇港であった。北斎の「臨海湖声」を見ながら、李芸を思い出す。評伝『玄界灘を越えた朝鮮外交官 李芸』(明石書店)を書いたことから、李芸を通じて琉球(沖縄)と朝鮮の縁を感じる。

 

 琉球に行ったことがない北斎が、なぜ、琉球八景を描けたのか。中国から江戸に入った書籍の中に、琉球の景色を描いた書物があった。なんでも、琉球に向かう中国の使節を乗せた船が久米島沖で遭難したとき、これを島民が救った。この救助劇によって、琉球で任務を果たせた使節は、帰国後、「琉球史略」をまとめた。これに、那覇滞在中に見た名所を描いたスケッチを収めた。「球陽八景」といった。

 

 北斎はこれをもとに、琉球八景を描いた。1800年代、異国の使者、朝鮮通信使は江戸に来ることはなかったが、琉球使節の「江戸上る」は続いていた。唐風といって、中国からの使者の振りをした琉球使節を、江戸の民衆は熱狂し迎えた。

 当時、江戸に琉球ブームが巻き起こっていた。これに浮かれたのであろうか、北斎は「琉球八景」を描いた。

 

「琉球八景」は、沖縄の浦添市博物館が購入して、所蔵している。当初は。琉球漆器が展示の中心だったが、文化的な背景説明が求められ、琉球八景の購入につながったそうである。琉球八景は、江戸上りのエピソードも絡み、日本本土とのつながりを押さえる上で、重宝という。

 

 「沖縄の中の朝鮮文化」探訪ツアーでは、浦添市美術館にも行った。三重城を描いた「臨海湖声」から、かつて那覇港に入った朝鮮の貿易船に思いを馳せたかったからである。

 世界文化遺産に登録されている沖縄のグスクには、高麗職人が焼いた瓦が使われていた。そこで、沖縄中部の勝連城跡を歩いた。

 緋寒桜咲く頃に行った沖縄を、北斎の「琉球八景」とともに、なつかしく思う。沖縄は梅雨入りも近いようである。