朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会で、東京に行く機会があるので、ぜひとも見たいと思っていた「すみだ北斎美術館」を見学しようと考えている。

 北斎は、90歳で生涯を終えたが、その間、朝鮮通信使を見ていない。しかし、通信使を題材にした「清見寺」があるほどだから、通信使へ関心を寄せていたことが分かる。

2007年から始まった朝鮮通信使日韓友情ウオークの第7次(2019年)に初めて参加したことがきっかけで、江戸時代への興味がさらに増した。そこに大きく浮上したのが北斎であった。

 

 「冨嶽三十六景」や「東海道五十三次」「諸国瀧廻り」を描いたように、北斎はよく旅に出ている、58歳のとき、大坂、伊勢、紀州、吉野へ、76歳で相州、豆州へ、71歳で上州から奥州へ、81歳で房総へと旅に出ている。

 そして85歳のとき、豪商・高井鴻山の招きで、信州小布施へと出向く。

 

 葛飾北斎は晩年、出版統制のあおりをうけ、沈んでいた。それを見過ごしにできず、愛の手を差し伸べる義侠の人たちがいた。信州・小布施の豪商、高井鴻山も、その一人である。

 85歳のとき、初めて小布施に来て以来、北斎は幾度となく訪れるようになる。89歳で請われて描いた岩松寺の天井画は、北斎最晩年の新境地である。画家を蘇らせた鴻山の功績は大きい。

 かつてNHKが放映した、北斎と娘の栄(応為)を描いた歴史秘話で、高井鴻山も取り上げられていた。鴻山は、どんな人物なのか。

 

 鴻山は酒造業で富を築いた豪商の家に生まれた、才気あふれる男である。若いとき、京都遊学もし、書画、国学・和歌、儒学、漢学まで学んでいる。なかで江戸で朱子学を学んだことが大きかったようで、佐久間象山や大塩平八郎とも交流があった。黒船来航で国が揺れた幕末、攘夷論や公武合体論を訴え、国内が飢饉(天保の大飢饉)に見舞われると、信州・小布施に帰り、窮民を救うため、倉を開いている。

 なかなかの行動的な豪商である。知行合一の朱子学の影響をうけているからだろうか。

 江戸の商人には、鴻山のような多能な人が少なからずいた。大坂の木村蒹葭堂(けんかどう)は、その最たる人物である。商家の長子であったが、幅広い分野で活躍した。文人、画家、本草学者、蔵書家、コレクターなど。高井鴻山も、その同類である。しかし、山あり谷ありの人生であったことに驚いてしまった。

 

 鴻山は父亡き後、家業を継ぐが、江戸でつくった妾が小布施に来たことで家が乱れる。正妻を亡くしたあと、災難続き。幕府からの援助要請で借金も残った。その後の奮闘したのであろう、家業を息子に譲るところまでこぎつける。

 そして、家族と別居して明治政府の役人になった。私塾まで開く。しかし、家が破産し、小布施の邸宅が大火で焼失し、どん底へ。そこから再び再起を図り、私塾を開校するが、病に倒れ、78愛で亡くなった。

 

 鴻山は画才があり、北斎の門弟として、作品を多く残しているが、なかでも晩年の北斎の影響が大きい妖怪画の数々であるといわれる。

 長野県の北東に位置する小布施町は、栗の産地であり、栗落雁で知られるが、北斎によるまちづくりでが近年、脚光を浴びている。

 

 すみだ北斎美術館は、北斎が生涯のほとんどを墨田区で過ごしたことから、2016年11月に開館している。北斎とその弟子たちの作品を集めた美術館であり、近年は漫画ブームから若者も見学に訪れていると推測する。

 北斎は、弟子に絵画の手ほどきをするため、『略画早指南』をはじめとする絵手本を数多く作っている。そこから北斎は元祖漫画家といわれ、「北斎漫画」の名で、漫画界にも影響を及ぼしている。