作家・安岡章太郎の『私説聊斎志異(りょうさいしい)』は、確か週刊『朝日ジャーナル』に連載されていたと思う。1980年代前後である。そのころ、月刊誌『世界』には軍事政権下の生々しいレポートであるT・K生の「韓国からの通信」が、また『週刊朝日』には司馬遼太郎の長期連載「街道をゆく」が載っていた。通学の電車の中で、それらを熱心に読む、私は読者であった。

 

 とりわけ、安岡が『私説聊斎志異』が書く上でモデルにした、幻想怪異譚『聊斎志異』の作者である中国・清代の蒲松齢に興味が湧き、彼の人生を調べたこともある。

 蒲松齢は、山東省の名家生まれ。父親の代に家業が没落。妾の子、蒲松齢は家の中で悲哀を味わう。秀才であったが、科挙試験にはことごとく落第した。その鬱屈をバネに『聊斎志異』16巻(約500話)を書いたという。彼が何とか食えたのは、わずかな土地を持ち、教師や幕僚などを務めたからだった。

 

 彼は、不遇のうちに生涯を閉じた人物である。『聊斎志異』は彼の死後、刊行されている。

 

 朝鮮にも、似たような人物が知識階級、両班(ヤンバン)にいたはずである。生涯、科挙試験を受けながらも合格できずに終わった両班の息子である。しかし、残念ながら、彼らは蒲松齢のように書き物を残していない。残しているのは、科挙試験を及第し、文を余技にした文官たちである。

 

 社会を鋭く分析できる観察眼は、何によって磨かれるか。いろいろ理由があげられるだろうが、人生の不遇をなめることによっても成される。蒲松齢がそのいい例であろう。

 

 彼は20代で小説を書き始め、その一方で、街で人を引き留め、奇異な事柄を収集したという。それが『聊斎志異』を生む原動力となった。

 日本では、明治以降に、多くの翻訳本・翻案が出て、流行したという。

 

 私には学生時代、文学が毒となって、故意に留年してしまったトラウマがあるから、なおさらそう思う。部屋の閉じこもることはよくないと、自分に言い聞かせている。本を読みふけると、ついつい出不精になってしまう。

 街に出て人と触れ合う。そのなかで、観察眼が磨かれる。これは蒲松齢が街で、人から話を聞き出したことにも通じる。