「伊都国から、『邪馬台国』『倭国』を考える」の続きである。  

 高野和人さんの聞書き『歴史の森へ』は、熊本で出版社「青潮社」を起こし、地方史研究の貴重な基礎資料を掘り起こした物語である。そのなかに『天皇陵絵図史料集』がある「元禄十一年諸陵周垣成就記/細井廣澤著、魚住良之写」「日嗣御子御陵/伊勢貞丈写」「雑玉考/木原盾臣編著」(提供元・国立国会図書館蔵書)を、復刻した貴重な絵図史料であることが、ページをめくりながら感じられた。

 聞書きを担当した記者と付き合いがあったことから、『天皇陵絵図史料集』を手にすることができた。

 天皇陵は、古代史を解明する上で、研究者に開放されるべきだが、固くなに閉ざしたままである。封印された天皇家の秘密を明かすことは、タブーなのであろう。

 

 伊都国の平原遺跡(福岡県前原市)は、大鏡の出土で有名である。江戸時代の福岡藩の学者・青柳種信の『柳園古器略考』に、前漢鏡35面が出土した、その南の井原ヤリミゾ遺跡からは後漢鏡が十数面出土したとある。

 

 ここからは、奥野正男氏の『邪馬台国紀行』(海鳥社)を引用しながら書きたい。

 平原遺跡の、「方形に溝をめぐらす割竹形木棺の墓壙の四隅から、(中略)42面もの銅鏡が出土した」。直径46・5㎝という超大型の国産鏡4面が含まれていた。同町在住の考古学者・原田大六氏は「゛三種の神器゛の一つ、八咫(やた)鏡ではないか」と言っていた。しかし、不可思議がことに、42面の鏡が粉々に破砕されていた。

 

 ここから奥野氏の推理である。こうある。

「私は、この42面の鏡がすべて別のところで粉々に破砕されてから、墓壙の四隅の穴に投げ込まれている状況から、霊力を失い異常な死をとげたシャーマン王(巫女王)ではないかと想像した」

 このシャーマン王は卑弥呼である。作家・松本清張氏は「(彼女は)霊力を失い、タダの女になってしまったので、殺された」(『アエラ』1989年6月13日号)と述べている。

 伊都国の平原遺跡が卑弥呼の墓でなかったか、と言う根拠の一つに、これがあるのではないか。

 

 奥野氏は、邪馬台国論争におけるベーシックな問い掛けをしている。こうある。

「(『魏志倭人伝』記述の)一大率の治所は、邪馬台国の北にある伊都国に置かれたというのだから、伊都国から邪馬台国へ行くには、南の方向で、残る1500里を行けばいい」

「文献の記載をもとに国々を比定する以上、例えば九州説の場合には、戸数、道里を記してある対馬、壱岐、末盧、伊都、奴、不弥、投馬の七カ国は女王国=邪馬台国の北に所在しなければならないのである。同時に、畿内大和説の場合には、この『女王国自り以北は、其の戸数・道里は省載を得可きも…』の一句を否定しうる根拠を示さぬ限り、その七カ国を畿内の北、すなわち大和の北に位置する近江・山城・丹波・丹後・若狭・越前といった地域に比定しなければならないことになろう」

 

 畿内説と九州説に分かれて延々続く邪馬台国論争。卑弥呼が戦ったという狗奴国について、次のような論考も出ている。

 狗奴国は邪馬台国の南にあり、その長官を「狗古智卑狗(ククチヒコ)」といったことから、奈良文化財研究所の小澤毅さんはこう言う。

 「ククチと似た音を持つのは熊本県菊池市付近以外には考えられなし、熊本県以南には狗奴に似た音を持つ地名もたくさんある。ならば邪馬台国は熊本県の北にある筑紫平野に違いない」(2009年5月8日付の朝日新聞より)

 

 以上書いてきて、私も邪馬台国九州説に傾いてことを実感する。新聞社時代から付き合いのあった考古学者・奥野正男氏(元宮崎公立大教授)から受けた影響と思っている。