卑弥呼の邪馬台国は、どこだ。畿内説と九州説、それに東遷説も加わり、いまだ定かでない。しかし、推理する研究者はプロ、アマ問わず数多い。中国の史書『魏志倭人伝』に出てくる邪馬台国への道を、どうたどるか。
邪馬台国論争で、意見が大きく分かれるのは、「伊都国」から先である。
倭人伝によれば、「奴国」(福岡平野付近)から東に「不弥国」、それから南に船で20日行った「投馬国」(水行20日)、さらに船で10日、陸行1月で「邪馬台国」にたどり着く。
帯方郡から邪馬台国(女王国)まで1万2千余里。距離と方位をそのまま信じた場合、遠く南海の彼方に行ってしまう。そこで畿内説と九州説は、距離と方位を操作して、それぞれ自説の正しさを強調する。
伊都国歴史博物館に行く。昨秋、特別展「邪馬台国畿内説のゆくえーヤマトと伊都国」で畿内説に関する出土品130点を紹介したことが記憶に新しい。纏向遺跡(奈良県桜井市)で、女王卑弥呼の宮殿と称される大規模建物跡が出土したことから、邪馬台国論争は畿内説有利をいう見方もある、果たして、そうか。
伊都国を論じると、邪馬台国を含め「すべ治め」て「倭国」を形成していたのではないか、と言われる政治的性格の強い国である。
『魏志倭人伝』には、描かれた伊都国を拾いあげると、3点に集約できる。こうある。
① 「千余戸あり、世々、王ありてみな女王国を(に)統属す。郡使が往来するに常に駐(とど)まる所」
② 「女王国より以北は、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国はこれを畏れ憚る。常に伊都国に治す」
③ 「郡の使いが倭国に着くと、(一大率の役人たちが))みな港にやってきて、船内に入って捜露し、郡からの文書を(女王国のしかるべき役所へ)伝え送ったり、魏の朝廷からの賜物などをきちんと女王の元に届けられ、万事いきちがいが生じたりすることはない」
伊都国の沿岸には、魏の船が着き、常駐する郡使の館があったのか。②にある「一大率」とは、魏=帯方郡らの派遣館か、彼らに任命された倭人の官でなかった。
① の「世々、王ありてみな女王国を(に)統属す」をどう解釈するか。「女王国を統属す」となると、女王国、いわゆる邪馬台国が伊都国王に統属されていたことになる、「統属」の意味は、「所属の官司をすべ治める」であるから、伊都国が邪馬台国を「すべ治める」ことになる。
伊都国は邪馬台国、さらには倭国を読み解く上で、キーマン的存在といえる。伊都国の平原遺跡が卑弥呼の墓でなかったか、と言う古代史家もいる。
東遷説を唱える柳田康雄さんは、平原遺跡の発掘にかかわった研究者で、次のような自説をもつ。
「北部九州で2世紀までに伊都国を中心とした『倭国』が成立し、それが3世紀初頭に中心を近畿に映したと考えている」「倭国が東遷したのは、北部九州にあった政権が東日本まで勢力を拡大するにつれて、首都が西端では何かと不都合になったからだろう」(2005年11月21日付の朝日新聞「どう読む?魏志倭人伝」より)
→後編に続く