唐津(佐賀県)には大伴狭手彦(さてひこ)と松浦佐用(さよ)姫との悲話が伝承されている。『日本書紀』によれば、大伴狭手彦は新羅に侵攻された任那を救うため、朝鮮半島に派遣された将軍であった。難波を出て、瀬戸内海を西行し、玄界灘に出ると、唐津を経由して半島へ向かったようである。

 恋仲になった二人は将来を誓ったのであろう。出兵する狭手彦を見送るため、佐用姫は鏡山で領巾を振った。そこで鏡山は領巾之嶺とも呼ばれた。佐用姫は、現在の唐津市厳木(きゅうらぎ)町にいた豪族の娘である。

 

 大伴狭手彦が寄港した唐津から出兵したのは、『日本書紀』によれば、宣化天皇(在位は推定536年1月~539年3月)の2年(537)に当たるとされる。そのころ朝鮮半島では何があったのか。

 ・459~477年の間に、5回にわたり、倭軍が新羅を攻撃

  例えば、476年6月、「倭人が東辺を侵したので、王が将軍・徳智に命じてこれを打ち破り200余名を殺したり、捕虜 

  にしたりした」(『三国史記 新羅本紀』より)

 ・532年 金官伽耶最後の王・金仇亥(キムクヘ)が降伏し、王妃・王子とともに慶州へ来る

 ・536年 新羅、はじめて建元という年号を使用

 ・538年 泗泚(サビ)遷都

 ・540年 伽耶、倭に使臣を派遣 

       (以上、金徳珍著『年表で見る韓国の歴史』より)

 

 任那は、北は高霊(慶尚北道)から南は洛東江の西側にあたる、金海一帯におよぶ領域にあったといわれる。その金海にあった金官伽耶が存亡の危機にあった時期に、大伴狭手彦は派遣されているのである。

 

 大伴狭彦が救援に向かった、任那とは一体どういうところか。いわゆる任那日本府については、過去、歴史学会で論争があった。

 そもそも、「任那」という文字の初出は、『日本書紀』である。また、中国『宋書』倭国伝には、こうある。

「詔して、武(倭王)を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除した」

 さらに、高句麗の広開土王を称える好太王碑には「400年に、新羅の城に倭賊の兵が満ちていたので、高句麗軍が救援して任那・加羅に至り、倭兵を追い出した」という一節がある。

 

 任那は地名であり、倭国の領土と見られた時代があった。何らかの足掛かりを大和朝廷が朝鮮半島に有していたか。

近年、任那を研究者がどうとらえているか。韓国・慶北大の朴天秀氏の『加耶と倭』(講談社選書メチエ)には、こうある。

「『日本書紀』欽明紀の2年には安羅日本府、15年には安羅に在る諸々の倭の臣という記事がみられ、阿羅加耶といわゆる任那日本府の関係が考えられる。そこで最近、韓日の古代史研究者は、この記事に注目し、任那日本府とは6世紀中葉、一時的に阿羅加耶に派遣された外交使節が滞在した阿羅倭臣館ではないかとかと考えている」。

 加耶は鉄王国であり、それを入手しようと、交易のための出先機関を置いた。それが任那日本府ではないか、という説である。

 

 その任那が新羅の侵攻にさらされている。そこで、大伴狭手彦が派遣される。しかし、この『日本書紀』の記述は、素直に受け止められるものではない、

 宣化天皇2年(537)、彼が出兵した当時の朝鮮半島の情勢をみると、腑に落ちないところが目立つ。

 先述したように金官伽耶が存亡の危機にあった時期に、大伴狭手彦は派遣されているのである。しかし、その状況を、彼は変えることができなかったのは、後の年表をみても明らかである。

 

 大伴狭手彦は「朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った」(『日本書紀』宣化天皇2年10月条)ことは、果たしてあったものなのか、どうも闇の中にある。