福岡に在住する韓国人、日韓交流史に興味をもつ日本人と一緒に、北部九州の歴史探訪をすることになった。そこで、「古代史から日韓関係を考える会」を起ち上げ、2カ月に1回、日帰りの旅をすることを決めた。

 1回目は5月下旬、前原から唐津を目指し、①伊都国歴史博物館~②鏡山・松浦佐用姫像~③恵日寺(えにちじ)の朝鮮鐘~④辰野金吾記念館をめぐることにした。

 歴史の現場の立ち、日韓関係に思いを巡らす、という姿勢で、これから北部九州を探訪していく。

 

 司馬遼太郎の『街道をゆく 砂鉄の道』取材に加わった、考古学者・李進熙氏が島根で朝鮮鐘を実見するために、寺を訪ねている。手元に、その本がない。覚えているのは、日本には40数口の朝鮮鐘があるが、江戸時代、朝鮮通信使が祭祀用に日光東照宮に持ち運んだ友好の鐘など幾点を除いては、ほとんどが略奪の鐘という一節である。

 それを補完してくれる本が出て来た。金達寿の『日本の中の朝鮮文化』第8巻に、因幡・出雲・隠岐・長門ほか、がまとめられている。

 

 そこにこう書かれていた。「朝鮮鐘は日本全国に54口ほどある」「(安来市の雲樹寺の朝鮮鐘は)高麗文化の高さを示し、或いはわが国最古の朝鮮鐘といわれている(『伯耆・出雲の史跡めぐり』より)」「日本にはこれより古い新羅時代につくられた朝鮮鐘もいくつかある」

 

 こう書いてきたのは、恵日寺で朝鮮鐘を見るからである。

恵日寺の朝鮮鐘は友好の鐘なのか、略奪した鐘なのか。禅宗の一派、曹洞宗の寺である。1375年、室町幕府3代将軍、足利義満の治世下、創建されている。この、朝鮮は高麗王朝で、倭寇の狼藉に悩まされていた時代である。

 朝鮮から西南雄藩、足利幕府に倭寇懐柔を申し入れる使節が派遣されている。その一環で、日本の諸藩は朝鮮に国王使の偽使を度々派遣した。この日朝のやりとりの中、朝鮮鐘が友好の証しとして、日本へ渡る。しかし、倭寇がお寺を襲って略奪した鐘の方が多いといわれる。

 

 本堂にある朝鮮独特の、飛天の菩薩像が羽衣を翻した鐘。本堂裏に池が広がるが、それを見通す廊下の一角に吊るされている。総高73・0㎝、鐘身の高さ57・8㎝、口径47・5㎝。大きい鐘ではない。

 国の重要文化財に指定された朝鮮鐘。製作された年は、高麗時代太平6年(1026)であることは確認できている。ただし、年号の太平は中国・遼王朝(916年~1125年)の年号で、属国の朝鮮としては、忠誠を誓う証しとしてあくまで公的に使用した。高麗では顕宗17年に該当する。顕宗(ヒョンジョン)は第18代王で、在位1659~1674。鐘の銘文に、次のようにある。

「大平六年丙寅九月日河清部曲北寺鍮鐘壱躯入重百二十一斤棟梁僧談日」

 

 釜山から近い、巨済島・河清の寺の鐘として鋳造された。専門用語を使い、鐘のイメージが湧くように「単頭の龍頭、甬と呼ばれる旗挿、蓮華文の撞座(つきざ)をもち、複雑な装飾文様の上・下帯、浮彫りの飛天を配する」と鐘の下に説明書を置いている。どうだろうか、鐘の全体像が思い浮かぶだろうか。

 この朝鮮鐘が、どういう経緯で恵日寺に渡って来たのか、定かでないというが、歴史的にどのような経緯をもつ鐘であるか、そこを知りたくなる。

 この朝鮮鐘には、削除された追刻銘があったという。1600年代半ば、沙弥妙賢が願主となって五ケ山天川村・勝楽寺に施入(献上)され、次に鏡村半田・常楽寺に移り、最後は恵日寺に落ち着く。ただし、真偽は定かでない。沙弥とは正式の僧になる前の修行中の若者であることから、財力を考えれば何やら怪しい。

 

 朝鮮鐘は、日本の南北朝時代から多数、将来された。確認できる最古のものとしては常宮(じょうぐう)神社(福井県敦賀市)の鐘や、西大寺観音院(岡山市)の鐘など40数口が現存している。