済州島南部、西木浦(ソギッポ)の海岸線が美しい。海面の輝きが違う。青い海、照り映える光。油絵のような世界である。前方に小さな島が浮かんでいる。海に飛び込んで、泳いでいっても渡れるような距離である。このような海岸が近いところで、絵を描いた男がいる。イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)という。元山(ウォンサン。現、北朝鮮)生まれ。植民地時代、日本に留学し、日本人・山本方子(まさこ)さんと知り合い、結婚。戦後、済州島で1年間、暮らしている。

 その頃の絵を、以前、ドキュメンタリー映画『ふたつの祖国、ひとつの愛』で知ることができたが、タヒチで暮らしたフランスの画家、ポール・ゴーギャンの絵に重ねてしまった。金のないのはゴーギャンも同じ。小屋を建ててアトリエとしたという。ただ、単身でタヒチに渡っているのが、イ・ジュンソプと違う。

 

 イ・ジュンソプは貧困であった。彼の描く抽象画は、その当時、国民に迎えられなかった。描いても収入は得られない。売れないのである。無収入の中、妻・方子さんは、毎日の食事を整える。栄養失調が付いて回る、貧しい食事しかできない。

 2人の子宝を授かるも、生活は厳しく、釜山にいたとき、イ・ジュンソプは妻子を、妻の実家・東京へと帰国させる。

 

 彼は一人、絵を描く。依然、売れない。巨済島・統営(トンヨン)に移り住んでいた頃、支援者と出会う。工芸学校で教え、わずかながらの収入を得る。しかし、苦しい生活は変わらず、39歳で肝炎と栄養失調のため、イ・ジュンソプは亡くなった。孤独死である。彼を看取る人は、誰一人いなかったという。

 

 映画の中に、釜山で一時期、前衛ともいえる芸術運動を一緒にした画家が登場し、涙ながらこう訴えていた。「奥さんが、東京に帰らずに残っていてくれたら…」。その後に、いうまでもないことだが、彼が不幸な死を迎えずに済んだのではないか、という言葉が含まれていた。

 

 当時、韓国の大統領は李承晩(イスンマン)。反日政権で、李承晩ラインを引くなど、日本に攻撃的であった。朝鮮戦争の直後、文学者、金雲素(キム・ソウン、釜山出身)がローマで開かれる国際ペンクラブに参加するため、日本に立ち寄るが、朝日新聞のインタビューに応じて、植民統治時代の日本の影がいまだ濃い韓国の実情を話した。

 それが、大統領の目にも留まり、怒りを買う。売国行為とみなされ、金素雲は14年ほど祖国・韓国へ帰れなかったこともある。それほど、日韓関係は険悪であり、玄界灘を渡ることさえ、ままならなかった。

 

 イ・ジュンソプは死ぬ前、特別の渡航証明書を発行してもらい、1週間の限定付で東京にいる妻子と再会できている。

家族で過ごせた束の間の幸せを胸にいだいて、あの世へ旅立ってしまった。