ソウル探訪記を書きながら思ったことは、ソウル市街地には、歴史と対話できる史跡が数多く残っていることであった。朝鮮王朝時代の5つの王宮のうち、最も新しい大韓帝国時代の王宮・徳寿宮だけを見学した。広い王宮は喧噪を忘れるには格好の場所であった。散策する路としては、徳寿宮の石塀に沿って、ソウル市立美術館に向かう石畳道も、その延長線にあり、気分も良かった。

 

 途中、現代ドラマのロケを行う現場に遭遇し、人気女優ハン・ジミンさんの姿を見ることができた。ドラマ『イ・サン』で、女官から、正祖(チョンジョ、第22代王)の側室になった宜嬪成氏(ウィビンソンシ)を演じた。ソンヨンと言った方が分かりやすいかも知れない。手を振ると、にこやかに応えてくれた。その笑顔が印象に残る。

 

 ソウル市立美術館は植民時代、最高裁判所だった建物で、外観は当時の面影が消えずに残っていると聞いた。その中に入りしばらくすると、ガイド役に来てくれた友人(元ソウル市役所職員)が手招きする。同館に寄贈された画家・千鏡子(チョン・ギョンジャ)さんの作品が一部、公開されていたからである、友人いわく、「これはラッキーでした。彼女は韓国を代表する女性画家として有名です。日本の女子美術大学に留学もしています」。

 

 会場に入って、すぐ目にしたのは、千鏡子さんの仕事場の写真である。そこには彼女もいる。会場には50余点ぐらいしか展示されていなかった。しかし、それで十分に彼女の作風を理解できた。華やかな色使いを特徴とした、大きな瞳に長い髪の、面長な女性を描いた作品が10点ばかり並んでいた。梟の群れなど、ブルーを基調にした絵もある。

 

 「彼女の専ら描くモチーフは女性と花と、蛇ですよ。タヒチを描いたゴーギャン、青の魔術師と称されるシャガールを思わせる絵もあります。アメリカで亡くなってますが、渡米する前、シュッキングな出来事がありました。おそらく、これが理由で、渡米したのでしょう」

 友人が話した出来事とは、こうである。

 

 国立現代美術館が所蔵する千鏡子さんの絵を、本人が見て、「これは偽物だ」と主張したことから引き起こされた。鑑定の結果、本物だとわかり、本人がショックを受けたのはもちろん、世間から「自分の作品も分からない画家」というレッテルを張られてしまった。

 この後、千鏡子さんは、自分の作品をソウル市立美術館に寄贈して、渡米したという。ニューヨークで亡くなったのが2015年。1924年、全羅南道・高興(こふん)に生まれたというから、91歳で亡くなっている。

 入場する際にもらった縦長の冊子(22ページ)のタイトルは、「永遠のナルシシスト 千鏡子」だった。ナルシシストとは、自己中心的で尊大な行動をとる人、という意味だが、彼女には当てはまらないでのでは。彼女は、近代画壇の革命児だったのではないか。それも色彩革命の寵児。当時、水墨画の白黒の世界が、相変わらず画壇の主流だったと聞いていたからだ。

 

 ソウル市立美術館で千鏡子さんの絵に出会えたこと自体、幸運であった。本来ならば、徳寿宮にある王室美術館で宮廷画家たちの作品を見て、李舜臣将軍、世宗大王の巨大な銅像が立つ光化門広場へ移動るする予定であった。ところが、王室美術館が改装のため閉館されており、そこで、ソウル市立美術館へ回った。

 

 幸運は、いつ、どうやって訪れるか分からない。ソウル入りした4月1日、桜はまだちらほら咲いていただけだったが、2日後には満開を迎え、桜の名所の汝矣島の花見も楽しめた。これも奇遇としか、思えなかった。