韓国の大統領官邸・青瓦台は、尹錫悦(ユンソンニョル)大統領が就任すると国民に開放され、大変な観光名所になった。大統領官邸が移転したのは、龍山にある国防部庁舎内である。このビルは、国立中央博物館から眺めることができる。

 先日の「桜咲くソウル・京畿道へ」の旅で、青瓦台を見学した。広大な敷地である。歴史の証人ともいえる青瓦台に入れるとは、考えてもいなかった。尹大統領の決断に感謝した。

 青瓦台には、歴代の大統領の近影は飾られていなかったが、大統領夫人の写真はあった。11人。眺めていて、金大中(キムデジュン)大統領夫人、李姫鎬(イヒホ)さんは身近に感じた。というのは、いろいろな逸話を聞かされていたからである。忘れずに記憶している、その一部を紹介したい。

 

【その一】

 1962年5月10日、結婚。新婚旅行は忠清南道牙山(アサン)にある、韓国最古の温泉といわれる温陽(オニャン)温泉。先妻に死なれ、老いた母親と幼い二人の子供を抱えた金大中が、李姫鎬に言ったプロポーズの言葉は、「君も知ってのとおり、僕には何もありません。でも、僕には遠大な夢があります。これは、この地に真の民主主義を花を咲かせ、国民に夢と希望を与えることです。僕には君が必要です。僕と子どもたちに手を貸してください。君を愛しています」だった。

 

【その二】

 ある日、国会から戻った夫は二つの表札を取り出した。「金大中」「李姫鎬」。私(夫人)は訳が分からず、面食らうばかりだった。「門に君と私の表札を並べて掲げよう」「……?」「家庭は夫婦がともに作っていくものだろう?」「それはそうだけど…」「夫婦は同等だということを、私たちがまず模範として示そうじゃないか」。自分の表札を注文するとき、ふと私のことを思い出したのだという。男女の別をわきまえ、夫を神と信じて従えを教えられた時代に、姑とも同居しながら妻の表札をつけるということは、かなり革命的な発想だった。

 

【その三】

 ○李姫鎬氏のソウルの実家=正月を新暦で祝い、祭祀(チェサ)の代わりに追悼礼拝を行う。告祀(コサ、厄払いと繁栄を祈願する祭祀)やクッを見たことがない。子供の頃、家にはラジオがあり、賛美歌のなかで育った。父親は母親の死後、「いとしのクレメンタイン」を歌った。李姫鎬氏は演劇が好きだった。生まれついてのプロテスタントだった。社会運動によって、世の中を変えるべきだと考えた。

 ○金大中氏の木浦の実家=金大中氏はパンソリ(語り部に節をつけて歌う伝統芸能)を聞きながら成長した。氏の父親は「春香歌(チュニョンガ)の中の「蓬頭(スクテモリ)」を愛唱した。金大中氏は動物と花を愛した。1956年、張勉博士を教父に洗礼を受けたカトリック教徒だった。政治によって社会変革を目指した。

 

 金大中、李姫鎬両氏は夫婦ながら、民主化闘争をたたかい抜いた同志ともいえる間柄であるような印象をもつ。二人は国を失った悲しみと解放、同族相食む戦争を経験した同世代であった。軍事政権が退き、民主政府が樹立される夢を抱いていた。民主主義の価値を信じていたし、その実現のため励まし合いながら前進した。