朝鮮王朝第26代王・高宗(コジョン)は10人の妻(王妃と側室)との間に16人の子を儲けた(5男1女以外は早世)。王妃の明成皇后(ミョンソンファンフ)・閔氏は1歳年上で、高宗が15歳のとき、王室に入った。しかし、そのとき、高宗には寵愛する後宮の尚宮・李氏がいて、閔氏に関心を示さなかった。

 李尚宮が息子(完和君)を産むと、宮廷は喜びに沸き返った。この様子を見て、閔氏は男児を授かることがどんな意味を持っているか、ひしひしと感じる。のちに閔氏は4男1女を授かり、王妃としての面目を保った。

 李尚宮の子・完和君は3歳のとき、原因不明の病にかかり、死亡する。それがたたって李尚宮は王宮から姿を消した。

 

  王妃・閔氏以外にも、閔宗の寵愛を受けた女性がいた。梁春基(ヤン・チュンギ、1882~1929)である。王宮・徳寿宮の厨房で働く下級女官であったが、高宗の目にとまり後宮になる。大韓帝国最後の皇女である徳恵翁主(トッケオンジュ、1912~1989)の生母である。徳恵は、高宗60歳のとき初めて生まれた娘だった。

 

 徳恵翁主を産んだ梁春基には、福寧堂の堂号を授けられ、従一品の貴人に封じられた。そこで、福寧堂貴人梁氏(プクニョンダン クィインヤンシ)といわれるようになった。

 高宗は初めての娘の誕生を喜び、徳恵を溺愛して育てた。1916年には、徳寿宮の中に専用の幼稚園を設けるほどだった。

 

 梁春基の本貫は、忠州梁氏である。1882年、梁彦煥の娘として生まれた。高宗の目にとまって後宮となり、徳恵翁主を産んだ。彼女は誕生直後、阿只(アギ、「赤ちゃん」の意)と呼ばれ、後に徳恵(トッケ)と命名された。

 福寧堂貴人梁氏は1929年5月30日、46歳で逝去している。彼女の墓が、城北区(ソウル市)の世宗大王記念館の傍にあるとは、思いもしなかった。

 

  なお、徳恵翁主は韓国併合後、特例的に王族(王公族)として扱われ、徳恵姫(とくえひめ)となった。旧対馬藩の後継、伯爵の宗武志(たけゆき)と結婚後、日本名は宗徳恵(そうとくえ)となった。日本敗戦後、二人は離婚する。それ以来、梁徳恵(ヤン・トッケ)となった。