『帝都東京を歩く地図』(Gakken Mook)を見ながら、1923年の関東大震災で、東京市の半分が焼失した帝都復興への道筋が出ていたので、読んだ。復興計画を主導したのは内務大臣・後藤新平である。彼は、台湾総督府民政局長、南満州鉄道初代総裁、逓信大臣などを歴任し、東京市長にもなっている。

 帝都復興院を設立した後藤は、自ら総裁になると、米国から政治学者ビーアド博士を顧問に迎え、「丸の内のオフィス街を中心とする欧米風放射状道路網の建設を構想」(同書より)して、具体化していく。予算40億円は減額されたものの、壮大な計画は日の目を見る。1930年、復興事業は完了し、帝都復活祭がにぎにぎしく挙行された。東京の街は群衆であふれ、花電車も走ったと、同書に書かれていた。

 

 植民地支配した朝鮮の都・京城(現、ソウル)。従来は漢城(ハンソン)と言われ、賑わう都である。36年間にわたる日本の支配だったが、その間、日本人は、朝鮮の都をどう変えたか。気になり調べてみた。

 風水地理思想(風水説)によって形成された朝鮮の都は、日本の改造で姿を変える。1910年代、東洋一といわれる総督府庁舎を、王宮の景福宮の敷地に建設する。南山には、朝鮮神宮を建設した。天照大神と明治天皇を祭神とする官幣大社である。

 

 姜在彦著『ソウル』には、こうある。

 「戦前のソウルには、北の方には北岳山を背景にした威圧的な総督府が君臨し、南の方には南山の中腹から朝鮮神宮が旧王都を見下ろすという寸法になっていた」

 これは後に、風水説上の地脈を考慮しての位置取りであったと批判されることになる。

 

 日本の御用学者は、風水説を研究したのであろう。研究の成果を踏まえ、意図的に地脈を断ち切るため、地気の旺盛な山に打ち込んだ、と推測される。その鉄棒が北漢山や地方でも発見されている。その場所は70余カ所にのぼるという。韓民族の気象と精気をそぐための、日本人による「地気断脈工作」といわれる行為が、伝説のように巷間に伝えられている。

 韓国の民衆に、長きにわたり影響を及ぼす風水地理思想を、否定するような日本による都(漢城)改造は、何を残したのか。

 

 そのような本があれば、読みたいと思う。4月、「桜咲くソウル・京畿道へ」で訪韓した折、『帝都東京を歩く地図』のソウル版がないか、探してみたい。

 植民地時代、日本人によって建てられた建物は、韓国では「負の遺産」である。金泳三大統領時代に旧総督府庁舎が爆破されて姿を消した。「負の遺産」であるが故に、痕跡を残さないように多くは゛抹殺゛されている。