韓流ツアー「桜咲くソウル・京畿道へ」では、行程に王宮・徳寿宮(トクスグン)、雲峴宮(ウニョングン)、仁川を組み込んでいる。朝鮮の激動の開国期に、どのようなことが起こったのか、を辿りたいという思いがある。開国を求めて押し寄せた西洋列強に対して、朝鮮も日本も、攘夷か開国かで大きく揺れた。日本は朝鮮よりも早く、開国へと舵を切り、富国強兵・殖産興業を進め、近代化の道を駆け登る。

 朝鮮は鎖国・攘夷に固執して、近代化に遅れをとる。政権を実質的に握っていた高宗(コジョン)の父・興宣大院君(フンソンテウォングン)の失策であり、これに輪をかけたのが、王妃・明成皇后(ミョンソンファンフ、閔妃)との確執であった。大院君と明成皇后との対立がなかったら、朝鮮の近代化は、大きく異なっていたのではないか。

 

 第26代王・高宗(在位1863-1907)が実質上、朝鮮王朝最後の王で、大韓帝国(1897-1910))の最初の皇帝となった。朝鮮王朝518年、王が兄弟も息子もいないまま死亡した場合には、王位継承を宗親のなかから選んだ。そして、その王の生父を「大院君」と呼んだ。

 

 宮廷に入る前、大院君は貧民窟に住んで、乞食同然の放浪生活をしていた。彼は、権力を握ると党派によることなく人材登用をはかって、南北老少に分かれていた四色党派の身分と階級を廃すること、地方の土豪たちによる民衆の虐待を禁じるかたわら、両班(ヤンバン)儒生の巣窟となっていた書院を撤廃することを命じた。

 

 高宗の姫(王妃)を誰にするか。大院君は、自分に従順な娘を、高宗の王后にしようと探した。大院君は妻の閔氏の実家の紹介で、兄弟も姉妹もいない15歳の閨秀(キュス、後の明成皇后。1851-1895)のことを知った。

 閔氏は困窮した家庭に育ち、8歳で父母と死別していた。しかし、賢かったために、親戚の間で評判がよかった。

 そこで、大院君は閔氏を高宗の姫に決め、王妃として冊封した。閔氏の本貫は驪州(ヨジュ)で、驪城府院君閔致禄の娘。繰り返しになるが、大院君夫人閔氏の推薦により、妃となった。

 

 閔氏は王妃となって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。高宗は当時、宮女である李氏を寵愛しており、正妻である閔氏には全く関心を示さなかった。その間、李氏は男子を出産し、その子は完和君(ワンファグン)と命名された。大院君は大いに喜んだ。

 閔妃(閔氏)はその姿を見て、不満と嫉妬を爆発させ、隠していた“爪”、すなわち天性の政治的手腕を駆使して、大院君に対する謀略をめぐらす。

 

 閔妃は、大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力を構築するかたわら、夫の高宗の愛を奪い返そうと、あらゆる努力を傾けた。1871年に産まれた長男を数日後に亡くした閔妃は3年後、次男を授かり、全国の有名寺院で祈願した次男は何としても王位に就けたいと一念からだった。この子を坧(チョウ)といい、のちに朝鮮王朝最後の国王・第27代・純宗(スンジョン)となる。

 

大院君は、ようやく閔妃の戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子(セジャ)として冊封しようとした。閔妃と大院君との闘争が激化した。彼女は利発だった。閔妃は側近の李裕之(イユジ)を北京に派遣して、清朝から坧を嫡子として承認してもらうことに成功した。

 

 閔妃は、摂政の大院君から嫌われて権力の座から遠ざけられていたあらゆる階層と連絡をとり、不満勢力を抱き込んだ。自分を中心とする政治勢力を形成した上で、儒生の崔益鉉(チェ・イクヒョン)を煽動して、大院君の攘夷鎖国政策を非難させた。崔益鉉は国王に上訴もした。

 

 二人の争いは、国王・高宗を味方に就けたのは閔妃に軍配があがる。1873年、大院君は9年余りにわたる摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。

 そうして、高宗の親政が始まった。だが、高宗は相変わらず酒色に耽っていたため、実質的には閔妃の専制となった。

 

 大院君が失脚したことによって、実権は閔妃一族に移った。閔妃一族の開化党(ケファダン)による新政権は開化政策に転換して外国に門戸を開放し、日本や欧米列強との間に修好条約を結んだ。このために、開化党と、清への忠誠を誓う事大党(サデダン)との間で軋轢が生じ、深刻化した。

 

 1881年、近代化の先進国である日本に60人以上の若い官僚から構成される「紳士遊覧団」を派遣し、視察されるとともに、軍制を改革し、日本式の軍事訓練を実施した。

 閔妃は王子、坧を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。その上、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂(ムダン)ノリ」を毎日行わせた。「巫堂ノリ」は巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。宮廷での享楽と寺への寄進は国の財政を逼迫させた。

 

 閔妃の執権10年目になると、官吏の給料の支払いが6年間停滞し、王宮を守る近衛の軍人5772人に対して13カ月の給料が滞った。官僚は俸給をもらえなくても、農民を搾ればいいから生活に困ることはなかったが、軍人はそのような搾取の手段を持たなかった。それに加えて、苦しくなった歳出を削減するために、兵制を改編して5営を2営に縮小したから、多くの軍人が職を失うことになった。

 

 当時の給与は米で払われたが、支給された米は濡れ、土砂も交じっており、このごまかしに軍人たちの怒りを爆発させた。この米を配ったのは、閔妃の親戚で、威勢を振るっている閔謙鎬(ミンギョモ)の下僕だったため、軍人たちは彼らに暴行を加えた。 

 ついには閔謙鎬と対立した軍人たちは、自らの立場を守るために、雲峴宮に蟄居する大院君を訪ね、窮状を訴えた。閔妃に復讐する機会を待っていた大院君は、これを好機ととらえ、兵士たちを煽って王宮・昌徳宮に押し入った。