釜山の国立釜慶大大学院に留学していたとき、講義で顔を合わせる院生は、日本の鉄道と城に興味を持ち、「よく日本へ旅行にでかけます」と話していた。「印象に残る鉄路と城はどこ?」と聞くと、「静岡辺りと姫路の白鷺城ですね」と答えた。富士山と白亜の美しさに惹かれると、その理由を述べた。

 

 彼から質問される。「日本の城に匹敵するようなもの、韓国にありますか?」。「山城や城郭じゃないかな」と答えた私だが、それほど回ってはいなかった。山城では公山城(公州市)、扶蘇山城(扶余市)、南漢山城(京畿道)、金井山城(釜山)、城郭では江華島城郭、ソウル城郭、水原華城(水原市)、秀吉の朝鮮侵略の折に造られた倭城では、蔚山倭城(蔚山)、西生浦倭城(同)などが、思い出された。

 「どちらが、持久戦に強いですか」という彼に、「それは山城。高句麗が隋や唐の大軍を跳ね返したのは山城があってこそ。中国の朝廷も地団太を踏んだはずだよ」(私)

 

 しかし、都城は堅固ではない。「暴を禦(ふせ)ぎ民を保つ所」の都城だが、1592年の秀吉の朝鮮侵略、1636年の清軍による侵攻では、簡単に打ち破られている。

 「恐らく城壁は、王都をその外部と区画する垣根としての役割しか、果たせなかったんではなかろうか」と、『ソウル』の著者、姜在彦(カンゼオン)氏はいう。

 

 朝鮮王朝を建国した李成桂(イソンゲ、太祖のこと)は、開城(ケソン、開京ともいう)から漢城(現、ソウル)に遷都し、1397年に都城を完成させる。しかし、余りにも突貫工事であったがために、粗雑だった。石城と土城がまざりあっていた。

 「年月を経るにつれて破損が生じた。そこで第4代世宗(在位1419~50)のときに改修してすべてを石城とし、第19代粛宗(在位1674~1720)のときにも改修がおこなわれた」(姜在彦著『ソウル』より)。ただし、時代によって石積みのやり方が異なる。

 

 4月韓流ツアー「桜咲くソウル・京畿道へ」で、城郭の一部を見学する。朝鮮王朝初期の頃の素朴な石積みと違い、石材を正方形や長方形にしっかり加工して、積み上げた城壁を見る。

 三清公園の裏側と駱山との区間に立つが、そこは「一辺二尺の方石をなめらかに加工して各辺をきちんとかみ合わせ、規格も整然と積みあげる城郭」(姜在彦氏}といわれる。

 

 ソウル城郭は、市街地を18キロの城壁で囲んでいる。かつて大統領官邸・青瓦台の西側から城郭に登ったが、そこは意外と険しく、勾配のある道を数百m歩いただけで止めた。

 現在、ソウル城郭は市民のハイキングコースになっている。世界文化遺産に登録申請するとも聞いていた。