時代の空気が変わったことを示すのが、開国後の明治期の洋館であろう。欧米文化の日本導入の痕跡は、まずは横浜の洋館に現れた。以後、西洋列強をモデルに、富国強兵を進めるなかで、鹿鳴館時代という極端な現象も生まれた。

 

 開国後の韓国に、どれほど洋館があったか。ソウルに最初、洋館として各国の公使館及び領事館が姿を現す。ただし、ソウル城内に、洋館は建てられなかった。外国人が住むこともできなかった。

 

 旧式軍人の暴動、壬午軍乱で一時、国外退去した公使の花房義質が再び、仁川に上陸後、ソウル城内の禁衛大将の邸宅に官舎を定めた。これが、ソウル城内に外国人が居住した先駈けとなった

 ソウルで最初に立った洋館(二階建て)は、開化派の朴泳孝(パクヨンヒョ、政治家)の邸宅だった。日本は、これを買い入れて公使館として使った。しかし、金玉均(キムオッキュン)ら独立党が起こした甲申政変のとき暴民たちの放火で焼失している。

 

 西洋式煉瓦造りの建物は、1886年に竣工した培材(ベジェ)学堂だった。米国人宣教師によって設立された、近代学校の先駈けである。培材学堂の講堂が、朝鮮人の手になる最初の洋館だった。朝鮮最初の洋式建築技師として名を残す沈宜碩が、大工・金徳甫と組んで造り上げた。

 洋式民家も現れる。ただし、日本人の所有であった。1888年、南山洞に富田鈴吉の私邸である。彼は日本公使館を建てた大倉組の請負業者であった。

 

 鎖国、攘夷に徹した興宣大院君(高宗の父)の私邸が、仁寺洞に近くにある。雲峴宮(ウニョングン)である。光化門までも近い。その私邸は、伝統的な韓屋ばかりかと思ったら、一部洋館もあった。この雲峴宮洋館が、韓流ドラマにはまったファンには一見に値する建物。なんと、コン・ユ主演の『トッケビ』で、トッケビ屋敷として出てくるというのである。

 現在、徳誠女子大学の事務所として使用されている、この洋館にはいることができるのだろうか。4月、「桜咲くソウル・京畿道へ」で雲峴宮を見学するので、そのとき訪ねてみたいと思っている。

 

 洋館といえば、高宗時代の王宮、徳寿宮は石造の洋風殿である。石造殿という。徳寿宮には、かつて洋館は幾つもあったが、現在では、徳寿宮と静観軒(チョングァノン)を残すのみ。静観軒は、高宗に寛ぎの時間をくれた東屋だった。

 開国後、西洋文化が押し寄せ、ソウルとその周辺は徐々に姿を変えていく。