「高宗の最後の宮廷画家、奪われた春を描く」という見出しを掲げる朝鮮日報の新聞がある。釜山に行った折、コンビニで買った2019年4月18日の新聞で、光化門と景福宮、その背後の北岳山を描いた絵が印象に残り、捨てずに置いていた。

 

 これを描いたのは安中植(アン・ジュンシク、1861~1919)。高宗(第26代王)が寵愛した画家である。安中植は早熟な画家で、20歳過ぎに朝廷が派遣した領選使に加わり、天津に行き、中国の新しい文物に触れている。画家として、投写図法など西洋式の描写を学び、帰国すると、近代画風の導入に力を入れた。

 その際たる作品が「白岳春曉」(登録文化財第458号)である。西洋式透視図を適用して、遠近感を出している、というのが描写のポイントである。縦198cm、横64cm。掛け軸のような縦長の画である。

 

 「ヘテ像、光化門(クァンファムン)、北岳山(ブクアクサン)の山勢を投写図法で遠近感を生かしながら盛り込んだ。1915年は、日本帝国が朝鮮物産共進会(博覧会)を開催するとして、景福宮の数多くの殿閣を崩して洋館を大量に建てた年だ。それでも安中植は損なわれていない景福宮の昔の姿をそのまま生かして絵で表わした。」

 この文章は、中央日報の文化欄に載った記事からの引用である。

 

 この特別展は、「3・1運動」と「大韓民国臨時政府」100周年を記念して、国立中央博物館で、「近代書画、春の夜明けを覚ます」というテーマを掲げて開催された。

 安中植は高宗に寵愛された宮廷画家だけに、確たる民族心をもって、時代と向き合っている。というのは、彼は1919年、3・1運動に参加したことが問われ、日本帝国の警察に拘束され、ひどい拷問の末にこの世を去っている。

 

 この特別展では、安中植をはじめ。呉世昌(オ・セチャン)、李会榮(イ・フェヨン)、金玉均(キム・オクギュン)など旧韓末から日本植民地時代まで書画家として活動した人たちの絵、文字、イラストなど100件が公開される。
 

 ここに金玉均が入っている。開化派で独立運動家の彼は、日本に近代化を視察するため朝鮮修信使にも選ばれ、来日した。それがきっかけで、慶応義塾に留学し、福沢諭吉と親しくなる。

 開国を迫る欧米列強とどう向き合うか。金玉均は日本の維新政府をモデルにした改革を朝鮮で起こそうと、仲間とクーデター(甲申政変)を起こす。政権を奪取したものの、3日天下と終わり、日本へ亡命した。そのとき、福沢諭吉とその弟子の世話になる。

 そのなかに、須永元(すなが・はじめ、1868~1942)がいた。亡命した朝鮮独立運動家と付き合い、閔妃暗殺事件が起こる前、朝鮮にも渡って、京城の朴泳孝の旧宅に奇遇している。

 

 その須永元の手元に金玉均の書が伝わっていた。国立中央博物館の特別展には、須永元の郷里・佐野市郷土博物館所蔵の8点が、韓国で初めて公開された。

 須永は豪農の長男に生まれ、少年期より詩文に長じ、漢詩家からも学んでいる。佐野市郷土博物館には須永文庫があり、書籍を中心に約1万点を保管している。その内訳は、和洋書、漢籍、準漢籍などの類である。近代日韓関係史を研究する上で、貴重な資料も多く含まれている。

 福沢の慶応義塾で学んだことから、須永元と金玉均との交友が生まれた。さらに須永元は朝鮮にも渡って、朝鮮の実情を知る。帰国後、朝鮮の開化派との付き合いが続いたのは、朝鮮を思う心が強かったからであろう。

 同博物館の「須永文庫」は、須永元の亡き後、財団法人・日韓国士顕彰会によって管理されていたものである。