大韓帝国と国名を改めたのは、1897年10月である。第26代・高宗(コジョン)が初代皇帝に即した。翌11月には、それを宣言する独立門が完成した。

 皇帝は、高宗一代限りと思っていたところ、第2代皇帝がいた。高宗の長男・純宗(スンジョン)である。1907年、高宗の譲位を受けて、大韓帝国の第2代皇帝に就いた。

 

 朝鮮王朝は、儒教国家として519年間つづき、終焉を迎えた。最後の国王(または皇帝)は、いうまでもなく第27代・純宗であった。母は明成皇后・閔氏。1897年、大韓帝国が樹立されると、皇太子に封じられた。

 

 即位後、わずか4日後に、第3次日韓協約が結ばれ、司法権や警察権の日本への帰属、軍隊の解散などが定められた。政府高官への日本人の起用が公然となった。

 純宗は皇帝となった後、異母弟の英親王を皇太子に冊封した。それに伴い、居住場所を徳寿宮から昌徳宮に移している。

 徳寿宮は、王宮としては高宗のために築造された宮殿であった。それも1代限りしか使われていない。純宗が徳寿宮を離れたのは、自分の意志だったのだろうか。

 

 純宗の在位は、1907~1910年と短い。この間、情勢は激変する。日本による朝鮮半島の武力攻略が進み、李完用などの親日派政治家と日本政府の野合で主権をはく奪される。

 韓国初代統監・伊藤博文がハルビン駅で、安重根によって暗殺された1909年の翌年、8月22日に日韓併合条約が調印され、大韓帝国が滅亡した。

 

 純宗は王権を行使できない、哀れな存在でしかなかった。彼の周囲には、親日人士ばかりが布陣しており、彼の意志を抑えつけた。大韓帝国が滅んだ後、純宗は皇帝から王へと降等された。昌徳宮にいる純宗を、日本は「李王」と呼び、王に該当する待遇をとり、王位を世襲できるように計った。

 

「純宗は廃位された後、16年間、昌徳宮にとどまっていたが、1926年4月25日、52歳で死去した。この年に6月10日、彼の国葬が執り行われたが、高宗の国葬の日に起きた三・一独立万歳運動に続いて六・一〇万歳運動が起きる」(朴永圭著『朝鮮王朝実録』より)

 

 皇太子に冊封された英親王は東京留学という名目で、日本へ連れて行かれた。伊藤博文を教育係のもと、皇族と交わりながら生活した。日韓併合条約で大韓帝国滅亡(日本植民地支配)後は、王世子として日本の皇族に準ずる存在となった。のちに皇族の梨本宮方子さんと結婚し、日韓融和を進めるモデルであるかのように宣揚された。

 英親王の異母妹で、日本生活を強いられた徳恵翁主(トッケオムジュ)も、旧対馬藩主であり、伯爵の宗武志と強制結婚をさせられている。

 

 純宗には二人の妃(純明孝皇后・閔氏と純貞孝皇后・尹氏)がいたが、子供には恵まれなかった。陵は裕陵(京畿道)である。