会津藩主を称えたのは、1719年にらいにちした朝鮮通信使の製述官(漢詩文担当)・申維翰(シンユハン)である。彼の日本使行録『海游録』には、こう書かれている。

 

「会津侯源正之だけは、貴公子なるをもって爵を受け、しかして己れを律して人を治むるに、もっぱら程朱(程朱学)の訓(おしえ)に遵うという。また珍しいことである」

 

 源正之とは、保科正之のこと。彼を祖とする松平家は代々朝鮮との親交が厚かった。五代藩主の容頌(かたのぶ)は、儒者として藩で最も尊敬される樋口溜川を対馬に派遣して、完成したばかりの藩校・日新館図に朝鮮文官の題叙を求めている。

 会津藩は加賀藩とも親しい姻戚関係にあり、2藩とも江戸城における朝鮮通信使との唱酬の席に欠かす事はなかった。それもあってか、加賀藩は通信使と友誼を交わそうと、俳人・加賀千代女に詠ませた俳句を扇子に書き入れて贈っている。

 

 申維翰と江戸で会った松平正容(まさかた)は、藩祖の正之の遺著『二程治教録』2巻、『三子伝心録3巻、『玉山講義附録』3巻に、序を書いてほしいと依頼している。

 これに応えて、申維翰は序文をつくって贈った。それほど申維翰は、藩の学風に朱子学を据える会津藩に親近感を抱いている。

 

 保科正之は、第2代将軍秀忠の四男(庶子)であり、3代将軍家光の異母弟にあたる。

 庶子であった正之の出産は慣例として江戸城で行われていないことから、秀忠側近の数名にしか知らぬ秘密とされた。異母兄にあたる家光させ知らなかったのは、それがためである。

 この血縁から、正之は家光と4代将軍家綱を補佐して、幕閣に重きをなしている。

 

 薩長が手を結び倒幕戦争を進め、江戸城へ無血入城した後、東北に進軍して戊辰戦争を起こす。そのとき、幕府との義理に殉じ会津藩の壮絶な戦いぶりは、朱子学的は藩風とのかかわりで論じられても不思議でない。裏をかえせば、それほど藩校・日新館の感化力はすさまじかったといえる。

 

 申維翰は『海游録』の付篇として、書いた『日本聞見雑記』のなかに、人物評が出てくる。どちらかというと辛口批評で、新井白石、その師である木下順庵が高く評価されている。そのなかに、保科正之も含まれる。これは朱子学を基準にした(フィルターを通した)場合の評価である。

 それは「日本の性理学は、一つとして聞くべきものがない」という日本聞見雑記の一文からも、色濃くに匂ってくる。