「桜咲くソウル・京畿道へ」の旅で、最終日に仁川へ行く。そこで、仁川大学の李正熙(イ・ジョンヒ)氏の案内を受ける。彼は、京都大大学院で、華僑の研究で博士号を取得した研究者である。仁川の中華街を中心に案内してもらいながら、研究の成果を聞きたいと思っている。

 

 「仁川大学が位置する松島国際都市と大学も案内したいです。松島国際都市に宿泊するならば可能かもしれません。」

 そんなメールが先日入ってきた。

 仁川は、韓国でも最先端を行く都市のようである。それは、開国期の興宣大院君、その息子・高宗時代にもいえた。欧米の先進文明が、まず仁川に゛上陸゛したからだ。

 その様子を、鄭銀淑(チョン・ウンスク)さんの「韓国の『昭和』を歩く」(祥伝社新書、2005年7月刊)にはこうある。以下のような、目次に付いていた小見出しで紹介する。

 

 朝鮮近代史の主役/韓国唯一のチャイナタウンは清国租界だった/韓流中華「ジャージャー麺」発祥の地/日本に運ばれる朝鮮の米が山積みに/ゴーストタウン化が進む外国人居住区/金融都市/血と汗の染み込んだホンエトンネル・ホンエ門/妓生マネジメント/上流階級のリゾート・月尾島(ウォルミド)/舶来品の「初もの」づくし

 

 開国・攘夷で揺れた朝鮮王朝末期、大院君・高宗の時代、異文化の波をもろに受けた街が仁川である。列強によるカルチャーショックを全身で受け止めた街ともいえる。

 

 鄭銀淑さんの本は、これを鮮やかに浮かび上がらせている。

 都・漢城(ハンソン、現ソウル)への物資の集散は、江華島と本土との間の水路から漢江に入るコースが主に利用されている。これを狙い、欧米は江華島を武力侵攻し、門戸開放を迫った。これに抵抗した朝鮮王朝であった、力尽きて、ついには屈する。

その結果、1876年、日本と不平等条約(江花島条)を、1882年には米・英・独・伊・露・仏との間で修好通商条約を結んでいる。

 

 高宗は王位に就いた後、西洋諸国と修交しながら開化政策を展開し、1897年には大韓帝国を宣布して、初代皇帝に就いて改革を推進した。しかし、乙巳条約の締結後、日本によって強制的に皇位から退位させられ、1919年に薨去した。葬儀日をきっかけに3・1運動が起こった。

 

 高宗は、悲劇の王であったし、王妃の明成皇(閔妃)もそうである。日本を牽制する外交政策を進めたが、それに反発する総督府公使の三浦梧楼の陰謀によって、殺害されている。

 二人の陵墓は、ソウル市内にある。洪陵である。高宗と明成皇后の陵である。明成皇后の陵は最初、弘陵といい、現在のソウルの清凉里にが造成されたが、高宗が薨去した後、陵を現在の位置に移して合葬された。

 

 「桜咲くソウル・京畿道へ」の旅では、この洪陵と高宗時代の王宮・徳寿宮、高宗の父親である大院君の私邸・雲峴宮を見て、仁川に向かう。この旅の見どころは他にもあるが、時代の大きな波に洗われた朝鮮王朝末期は大きな要素である。

 

【訂正とお詫び】昨日の記事で、大阪の東方出版から刊行する新著の書名を間違いました。正しくは、『朝鮮通信使に掛けた魂の軌跡 ~松原一征 ユネスコへの道~』でした。

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