朝鮮王朝・第4代王・世宗(セジョン)は、名君といわれるだけあって輝かしい業績を残している。その影には、正室・沈氏の「内助の功」があったことが見逃がせない。

 ○正室=沈氏 二人の間には8男2女が生まれる

 ○8名の後宮 →彼女たちとの間に10男2女をもうけている

 

 正室の昭憲王后・沈氏は、世宗の輝かしい治世の陰に隠れて、その生涯を涙と溜息で終えた女性であった。沈氏は、父母が教えてくれたとおり、朝鮮時代の女が守らなければならない徳目を胸に刻み、抜かりなく後宮の主の役割を果たした。

 沈(シム)氏は楊州(ヤンジュ、京畿道)の名門、青松(チョンソン)沈氏の家に生まれる。父の沈温(シムオン)は高麗時代に文科に及第して官職を務めていた。母の順興安(スヌンアン)は、朝鮮王朝時代初期、左議政を歴任した安天保の娘である。

 ○沈氏は、早くから王家への嫁がね候補として嘱望されていた。

 ○14歳になる年、ついに当時、忠寧(チュンニョン)大君だった後の世宗と結婚。

  忠寧大君は2つ、年下だった。

 ○世宗が王位に上ると、彼女は一躍、一国の国母となった。

   

 女が男の仕事に口を挟めば大事に至ると肝に銘じた時代だったから、沈(シム)氏は嫌なことがあっても決して口外せず、胸に秘めてじっと耐え、黙々とその原則を守り抜いた。

 

 ○沈氏の思い通りにいかず、父の沈温が太宗に疎まれて仕官から外れる

 ○党争、政争のとばっちりを受けて、父の沈温が明から帰国するや。水原に押送され、自ら命を絶てとの御命を受ける。

 ○沈氏の母、安氏は官奴婢の身分に落とされる。

 ○太宗は、外戚をけん制する武器として、後宮制度を法的に定める。

 ○沈氏は、息子の広平大君と平原大君が20歳で夭逝するのを看取る。

 ○すべての恨みを胸に秘めたまま、沈氏は52歳で死去。

   

 世宗は彼女が世を去ると、思政殿の前に立ち、沈氏を次のように称えた。

 「我が祖宗以来、家の法がとても正しく守られ、我が身をおかしくしても、中宮の内助に助けられた。中宮は性質がとても柔順で、言行が優れ、妬忌(なたむ)する心がなかった。先王(太宗)におかれては常日頃から、中宮は木の枝が伸びるように下々にまで及ぶ徳があったと称えておられた」

 

 宮女たちの間では、同性愛は「対食(テシク)」(文字通り、相対して食べる)と呼ばれ盛んに行われていた。宮女たちは普通一つの部屋に所属の異なる2人が一緒に寝起きしていた。彼女たちは互いに部屋友達(房友=パンウ=)などと呼び、背中には「朋」という文字を書きつけて同棲愛を楽しんだといわれる。王からの承恩に浴さなかった宮女たちは何の希望もない王宮生活で、このようなやり方で、日頃の欲求不満を解消し、慰めたのである。

 

 世宗は、儒教道徳に反する同性愛をした宮女たちに70回、あるいは100回の棍杖を打つ刑を下した。それでも、根絶ができないので、さらに『三綱行実図』を配布し、綱紀を正そうとした。これは世宗13年(1431)、集賢殿副提学の偰循(ソルスン)が世宗の命に従って編集したもので儒教道徳を絵入りの図解で編集し、誰にでもよくわかるように解説していた。

 しかし、宮女の枠組みそのものがきちんと性欲を解消できないようになっていたから、これは根本的な解決を先送りしたものに過ぎなかった。