日本では、政治の混迷が続く。世界的にもそうである、人権弾圧と戦争の20世紀に逆戻りしたような状況が世界を覆っている。それを作り出す要因として、リーダーの不在が大きい。そこで「名君とは?」という言葉が出てしまう。朝鮮王朝時代を例に考えたい。

 

 歴代27代の国王で、名君、聖君と評価されるのは誰か。以下の3人は異論はないはず。ハングルを創製した世宗(セジョン、第4代)、在位52年、民本主義を基礎に民のための政治を行った英祖(ヨンジョ、第21代)、旧弊を打破する改革政治を貫いた正祖(チョンジョ、第22代)。韓国では、これに第9代王・成宗(ソンジョン)を加える。

 

 第4代王・世宗の治世下の朝鮮は中国文化に傾斜しない自主性が追求された。中国文化になびかない、朝鮮独自の文化を追求した世宗のもとには、朴堧、チャン・ヨンシル、ハングル創製にかかわった革新的儒学者をはじめ、有能な人材が数多く集まった。彼らが、世宗に「大王」の冠を捧げた功労者であったと思える。何事も完成させなければ、功績とはならないからだ。

 科学発展に尽くした発明家に、チャン・ヨンシル(蒋英実)がいる。

 

 ドラマ『チャン・ヨンシル』に、音楽の話が出てくる。石を削って、宮廷音楽にふさわしい音づくりに汗を流す工房の場面である。朝鮮独自の暦作りのため、天文台を設置した隠れ屋が、国を憂える反対派に襲われて破壊され、殺害されたと思われていたチャン・ヨンシルが生き延びて、これにもかかわっていた。

 そんな筋書きだが、朝鮮の音楽を体系化したのは、朴堧(パク・ヨン、1378~1458)である。官僚の息子で、忠清道・永同の生まれ。33歳で、科挙試験に及第し、集賢殿、司憲府に勤めた。幼い頃より音楽の才能に秀でた男で、世宗に出合うことで、最もやりたかった音楽の世界に没頭する。

 なぜ、世宗は音楽にこだわったか。 

 孔子が最も重んじた礼と楽。儒教政治で、儀礼は何よりも重要で、この儀礼に欠かせなかったのが音楽だった。当時、朝鮮は音楽体系が散漫で、未整理の状態だった。

 

 朴堧は、音楽復興のため整理に乗り出す。世宗の期待に応えた彼の業績として、雅楽の復興、楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などがあげられる。

丁度ドラマで出てくる場面は、楽器の製作である。当時、楽器は輸入に頼り、国内生産できていなかった。この課題を越えるため、彼は石材を見つけ出し、国内生産の基盤をつくり上げる。

 

 「1427年、自作の黄鐘と編磐(へんけい)によって十二律の音階を完成させ、楽制を整えた」、と『朝鮮を知る事典』(平凡社)に紹介されていた。

 

 彼は各地に出向いて、民間に伝わる郷楽を調査・整理し、これを宮中楽として採用するなど、民族音楽の基礎を固めた男であった。

 この道一筋の朴堧は、官職を退いた後は、帰郷して死ぬまで音楽の発展に尽くそうと努力を重ねている。

 

 成宗は馴染みが薄い国王である。世祖(セジョ、第7代王)の長男と世子嬪の間に生まれた次男である。先の国王、睿宗(イェジョン)が在位1年2カ月で死去したのを受け、異例の即位となった。

 成宗は13歳で王になり、貞熹王后(世祖の妃)の垂簾政治を経た後、自ら政治を動かすなかで、王権の強化に努め、安定的な内政・外政策を進めた。朝鮮王朝実録には「成宗は太祖(李成桂のこと)以来、築き上げてきた朝鮮王朝体制を安定させ、朝鮮の民衆も建国以来、最も太平な世を迎えることができた」と記している。

 王位に就くにあたり、名宰相といわれる韓明澮(ハンミョンフェ)の後押しが大きかった。

 

 在位25年と意外に長い成宗は、運のいい国王であったと思われる。高麗末期から百年間にわたり頒布された、さまざな法典、教旨、条約、慣例などを網羅した『経国大典』を完成させた。これにより朝鮮王朝の法的基礎が築かれたといわれる。これが名君、聖君といわれる大きな功績である。

 

 成宗は、世宗時代の集賢殿に該当する弘文館を設置する。そこで人材育成に努め、学門と政治を一つに束ねる。その成果として、法制を整備され、国政が安定したといわれる。

 しかし、成宗は暴君となった燕山君(ヨンサングン、第10代王)の父親である。後宮から王妃にのし上がった尹氏(燕山君の母)は嫉妬深く、宮廷で騒動を巻き起こす。廃妃になった直接の原因は、国王・成宗の顔に爪で傷をつけたことであった。成宗と彼の母、仁粋大妃(インステビ)韓氏が激怒して、その罪を問い、尹氏は廃妃となり王宮追放となった。のちに死薬を飲んで死んだ。