司馬遼太郎の『峠』を読み、陽明学に心酔した越後長岡藩の河井継之助に興味を抱いた。その陽明学は米沢藩(山形県)の上杉鷹山も持ち合わせていることを、内村鑑三著『代表的日本人』を通して知った。

 それに関連して、小泉純一郎氏が首相のとき、所信表明演説で「米百俵の精神」を唱えたことを思い出した。当時、これは大変な話題になっていた。彼は「明日をようしょう」と聖域なき構造改革断行を訴えた。


 童門冬二氏が『小説上杉鷹山』と『小説河井継之助 武装中立の夢は永遠に』を書いている。後者は幕末、上席家老へ異例の出世を遂げた河井継之助が画期的な財政改革を断行し、゛蒼き龍゛と呼ばれるに至った物語である。そのあとがきに、「米百俵」のことが出てくることを、農業協同組合(以下、農協)新聞ニュースのコラムで知った。それによると、「『米百俵』は『路傍の石』や『真実一路』で知られる山本有三がすでに小説に書いているらしい。     
 

 農協新聞ニュースのコラムを紹介したい。

 「長岡藩は戊辰戦争のとき、河井継之助の決断で官軍と抗戦したが敗れる。禄高は7万4千石から2万4千石に減らされ、藩士たちは窮乏に喘ぐ。その窮状をみかねた支藩三根山藩から支援米100俵が届くが、この頃長岡藩の大参事(旧家老)をしていた小林虎三郎は『みんなに分けてしまえば、一日分の食糧で終わってしまう。これを人材養成に使えば何万俵にもなって戻ってくる』と、藩士たちを説得し、学校を設立したという話」「『米百俵』で創った学校から、山本五十六元帥など著名人を輩出している」

 文中にある小林虎三郎の言葉は、正確にいえば「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」である。

 

 この話から、ここ数日間、読んでいた内村鑑三の『代表的日本人』に出てくる上杉鷹山の話を思い出した。

 鷹山は、領内を全国最大の絹の産地にしようと夢見る。しかし、財政的に余裕がない。藩庫は乏しい。鷹山は、どんな手を打つのか。「奥向きの費用209両から、さらに50両を切り詰め、それでもって領民の間にこの産業を極力推進する費用に当てました」

 

 鷹山の考えは、「わずかな資金でも、長い間つづけるならば巨額に達する」である。結局、桑株を植える運動を50年続け、鷹山の夢はかなう。継続は力なり、の模範のような話である。持続する志というか。

 

 『代表的日本人』の上杉鷹山の項で、「米沢地方の今日があるのも、他のどこにも負けない絹の生産があるのも、往古の藩主の忍耐と慈悲心の賜物です」と内村鑑三はくくっている。

 

 一方、農協新聞ニュースのコラムは、「米百俵」を次の言葉で締めくくっていた。

 「米は田んぼからできる。田んぼは日本人とその心を育てる。田んぼ偉大だ!」