ぼろぼろになった本がある。本が2つ、3つに引き裂けたため、クリップで止めている。誰の本かといえば、源了圓(みなもと・りょうえん)氏の『徳川思想小史』(中公新書)である。源了圓氏は思想史(近世から明治期まで)と日本文化論を研究した東北大教授(新書執筆時)で、2020年9月、死去されている。

 「明治がわかるためには徳川時代まで遡らねばならない」と、徳川思想史を研究して、この『徳川思想小史』が生まれた。

 本がぼろぼろになったのは、繰り返し読んだからである。感じたところを、色鉛筆であちこちに線を走らせている。そのなかに、次の一文がある。

「陽明学の徒から明治以後キリスト教への入信者が多く出たという説もあるが、これについてはわたしはまだその正否を断ずる段階には達していない」

 

 これを見て、とっさに内村鑑三を思い浮かべ、彼の『代表的日本人』に登場する中江藤樹を思い出した。

 内村は武士の子であり、若くしてキリスト教徒となった。明治期。身分制が崩壊し、士族の迷走が始まる。その象徴として、西南戦争があるのではないか、という見方もできる。キリスト教が、士族の心をとらえたのは、精神的・物質的支柱を失った時代のなすわざだったのか。

 源了圓氏が踏み込まなかった、先ほどの課題に取り組んだ人は誰かいないか。探していると細川一彦氏のブログにたどり着いた。その概略が、こうかかれている。一部だけ紹介する。

 

 「幕末から明治初期にキリスト教が入ってきたとき、それに強い関心を示した日本人の中には、陽明学を学んでいた武士やその子らがいた。
 先に書いたように、日本のプロテスタントには、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドという三つの流れがある。これらの団体に集ったのは、士族の若い知識人である。彼らは、儒教の天の概念を以てキリスト教の唯一神をとらえ、また、儒教的な倫理道徳を通じてプロテスタンティズムの禁欲・勤勉の倫理を理解した。特に陽明学の素養が、宗教的信仰としてキリスト教を受容する土壌となった。陽明学からプロテスタンティズムへという道筋があった。
 その具体例を、植村正久、海老名弾正、内村鑑三、新渡戸稲造の四人について見ていきたい。」

 

 内村鑑三が『代表的日本人』の一人として取り上げた西郷隆盛は、若い頃から陽明学と禅の思想に興味を抱いた。西郷の一生を貫く命題に、統一国家と東アジア征服があったと内村はいい、それを生み出した思想的土壌として陽明学をあげている。それは、「陽明学は進歩的で前向きで可能性に富んだ教え」(内村)であったからである。

当時、陽明学はキリスト教に近づく土台となった。これは、細川一彦氏が指摘した点からも理解できる。

 

 近江の聖人・中江藤樹がいった言葉に、こうある。

「ばんみんはことごとく天地の子どもなれば、われも人も人間のかたちあるほどのものは、みな兄弟なり」

 ここに源了圓氏は、「彼(中江藤樹)が非常に宗教的傾向をもった儒者であったことだけは断言できる」といっている。

 

 陽明学がキリスト教を受容する土壌になったことに、感慨を覚えた。陽明学を拒んだ朝鮮と比較すると、なおさら、その思いを深くする。