陽明学というと、「知行合一」が思い浮ぶ。この思想に共鳴した人は行動的である。世直しの大塩平八郎しかり、越後長岡藩の河井継之助しかり。近江の聖人・中江藤樹は、どうなのか。陽明学の祖といわれる人物だが、静かなイメージ、謙譲の精神に結びつき、行動的な人物像とはかけ離れているような気がするが…。

 

「暗くともただ一向にすすみ行け 心の月のはれやせんもし 

志つよく引立(ひきたて)むかふべし 石に立つ矢のためし聞くにも

上もなくまた外もなき道のために 身をすつるこそ身を思ふなれ」

 

 この中江藤樹の歌には激情の思いが宿っているようで、村の先生というイメージとは異なる。

「藤樹はなかなか創造的な人間でした。ただ、その本来の謙遜な性格のために、自分をあらわす代わりに、この種の学問によったのでした」と内村鑑三は『代表的日本人』のなかで、こう説明し、藤樹の残した次の言葉を紹介している。

「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢がいる。たあd、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足らない」

 

 ここから、韓国の陽明学者・学徒に誰がいるか、と不図思った。藤樹のいう「真の聖賢」である。

「『外柔内剛』の日本人に比べて、『外剛内柔』の韓国人は熱し安く冷め易い、といえそうだ」という姜在彦氏は、世界都市の物語『ソウル』のなかに、韓国人の性格をこう述べている。さらにこういう。

「韓国人は感情や本音をストレートに発散し、自己主張が強く、それによる摩擦をもいとわない」「日本人は『和』にために『個』をおさえるが、韓国人は、たとえ『和』がこわれても、『個』を主張する傾向は強いようである。」(姜在彦著『ソウル』より)

 

 日韓の国民性の違いを考えると、不安になる。藤樹のいう「自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢」という範疇にかなった陽明学者・学徒は果たしているのか。まだ探し切れていない。

 

 韓国の陽明学は16世紀前半、中国から伝わる。しかし、異端として排斥された。異端視する先鋒に、儒学界の巨人・李滉(李退渓)がいた。儒学を国教に据える朝鮮王朝では、陽明学者の存在は小さかった。王朝後期、実学が重要視されるようになると、やっと陽明学は桎梏を解かれ、根を下ろし始める。

 陽明学の受容については、日本と韓国では大きな違いがあった。藤樹学を、話題にする余地もないほど、日韓でひらきがあった。