4月、桜の咲く頃に、ソウルと京畿道を巡る韓流ツアーを行いたいと思い、旅程をつくった。2泊3日のコースは、高陽、ソウル、仁川である。詳細は省くが、ソウルで訪ねたい場所は多い。なかんずく、澗松(カンソン)美術館はその筆頭ともいえる。朝鮮王朝後期の風俗画家、金弘道(キムホンド)と申潤福(シンユンボク)の絵画を収蔵する美術館であることから、興味を覚えている。

 度々、ソウルを訪れたが、そこにはまだ行ったことがない。光化門の東北、成均館大学の北側にある。光化門の前からタクシーに乗っても、20分もあれば到着するだろう。

 

 釡山留学時代(2014~15年)に、朝鮮日報を見て、その存在を知った。それには同館の企画展で、朝鮮王朝後期の風俗画家、申潤福(シンユンボク)や金弘道(キムホンド)の作品をはじめ国宝、又それに準じた作品が公開されるとあったので、見に行きたい衝動に駆られたことがある。

 企画展に出品された国宝の絵画は、同館の所蔵品である。国宝を数多く所蔵できたのは、恐らくオーナーが資産家で会ったことは間違いない。オーナー名は、ソウルでは有名なのであろう。

 

 『山河ヨ我ヲ抱ケ』(上・下巻、解放出版社)のなかに、澗松美術館の創始者が紹介されていた。ハンギョレ新聞の連載記事を翻訳して本である。これには、澗松美術館の創始者を紹介されていた。

 創始者は全鎣弼(チョン・ヒョンピル、1906~1962)という。澗松は、彼の雅号である。「文化財輸出を防いだ拒否の精神―稀代の古美術収集家ー」(見出し)として、ハンギョレ新聞は彼を紹介する記事の冒頭に、こう書いている。

 

「ソウル城北洞にある城北国民学校付近のうっそうとした林は、高麗末期以来、先蠺(ソンチャン)壇[養蚕をはじめたといわれる神]とよばれてきた。その名は朝鮮王朝の王(ワン)氏[高麗初代の王、王建の後裔]たちが、養蚕の創始者という中国元妃[王妃]西陵氏の祭祀をここでおこなったところから由来している。」

 ここに、ブレサンというフランス人の私有地があった西洋式の別荘が建てられていたが、それが韓国人の手に渡る。さらに、この地に葆華閣(ポファガク)という私設博物館が設立される。

 「『朝鮮古美術のメッカ』葆華閣はブレサンから別荘を買い取った人物の雅号にしたがって、1971年5月に『澗松美術館』と名称を変える。その人物こそ、美術品収集家であり、教育事業家の澗松全鎣弼である。」

 

 これを読んで、やっと澗松美術館が出来るまでの経緯を知ることができた。

 全鎣弼は植民地時代、日本に渡り、早稲田大学法学部で学んだ人で、帰国後、翰南書林を後援経営、普成高等普通学校の運営を引き受け、普成中学校の校長にもなっている。解放後は、国から文化財保護委員の委嘱を受ける。教育功労者として表彰を受けるが、年譜には華やかさがない。

 

 資産家の家庭に生まれ、民族的自負心をもって、韓国の文化財が不正に海外に流出するのを防いだ。流出したものがあれば、それを買い戻している。

 彼の父・全泳基(チョンヨンギ)は忠清道と、黄海道などに膨大な土地を所有し、ソウルの中心地・鐘路一円の商売を取り仕切っていた大富豪であった。

 10代、音楽と文学に親しんだ全鎣弼が、なぜ美術品に関心を寄せるようになったか。早稲田大学時代、日本の美術市場に流入していた母国・朝鮮の古美術品をみたことがきっかけだが、このとき「これは朝鮮にとっての不幸なこと。買い戻さなくては」と思ったのではなかろうか。

 

 それは、帰国後、父の財力をもとに本格的に古美術のコレクターになったことで証明される。当時、東洋最大の私設博物館に、彼の収集した民族文化の華が次々と納められる。

 

 しかし、コレクターゆえに、美術品の代金を払うために、所有する土地を売却したり、財産を切り売りしている。これでも、全家の財政的基盤は揺るがなかった。運営難に陥っていた仏教系の学校を引き受けて、新たな学校を設立し、一流私学に育て上げている。

 朝鮮が皇民化政策で揺れた中、同校では「最後まで創氏改名をおこなわず、学校内に勅語箱をつくらず、一番最後まで普成(※学校の名称)でハングルを教えるようにした民族教育者」として通した、と次男は語っている。

 

 日本による植民地統治、民族解放運動、祖国解放と分断,朝鮮戦争、軍事政権下、四月市民革命、軍事クーデターと続いた激動の時代、全鎣弼は、民族心をもって、古美術品のコレクター、教育界に大きな足跡を残した。しかし、それを誇るような人物ではなかった。考古学者の金元龍氏は、こう全鎣弼の人となりを振りかえる。

「日本人の専有物となっていた日帝下の古美術界で、澗松はわれわれの文化財を自らまもろうという民族的信念のもと孤軍奮闘した。ともすれば投資事業となりがちな古美術品収集界で、彼の作業は質、量、歴史、そして精神面においてほかの者と比較にならないほどの光を放った」

 

 澗松美術館の創始者について、多くのソウル市民が知っているはずである。植民地時代、民族的自負心をもって文化財の海外流出を防いだことは、美挙といえる。

 朝鮮総督の南次郎(大分県出身)が、コレクターとしての彼の名を知り、「葆華閣を見たい」といって、全鎣弼を訪ねてきている。その時、拒絶できず、到着後1時間待たせて、会っている。このとき、全は、南次郎とどのような話をしたのだろうか。南は第7代の朝鮮総督。そのポストに就いた、例えば山県有朋(山口県出身)は退任に際して、朝鮮の美術品や書籍などを大量に持ち帰っている。朝鮮総督は、それが容易にできる権力の座であった。

 このような行為を、全鎣弼は喜べるはずはなかった。

 

 東京で、美術品収集家のイギルス人弁護士が朝鮮の古美術品を売りに出したとき、同業者からいち早くそれを聞きつけ買い戻しに駆けつけている。そのとき、彼はこう言ったという。

 「朝鮮の文化財は朝鮮の地にかえさなければならない」、と。この一言から彼のコレクターとしての、民族心あふれる志が伝わってくる。

 

 日本には、海外に流出した祖国の美術品を取り戻そうと、収集を続けた鄭詔文(チョンジョムン)氏がいた。鄭氏は、京都市で成功した在日の実業家で、儲けた金を朝鮮の古美術品収集に回して、高麗美術館(京都市北区)を創設するほどのコレクションをつくりあげた。

 古美術品のコレクターを始めた動機が、鄭詔文と全鎣弼の両氏はとても似ている。仮に生前、二人が出会う機会があったとしたら、話が尽きないのではなかろうか。それほど祖国愛が強い二人である。鄭詔文氏も鬼籍に入って久しい。