大洲城。城下を見下ろす肱川沿いに高台に立つ。天守閣は市制50周年の佳節に復元、完成している。6万石の藩で、鳥取の伯耆米子から転封してきた加藤家が治めた。

 封地を、35年間に6度も経験した加藤家の出身地は美濃である。家祖は光泰。秀吉の配下にいて、近江、播磨、近江、甲斐甲府と国替えが続いたが、光泰が秀吉の朝鮮侵略の折、朝鮮で亡くなったことから、家運が傾く。

 甲斐甲府は24万石だったが、遺児の貞泰が後を継いだときには、美濃4万石に転落した。これは、石田三成が大きな甲斐甲府の封地をねたみ、秀吉に讒言したためという。

 

 これが加藤家に幸いした。三成を恨むことから、関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川方につき、戦後、伯耆米子をもらいうけ、その後、伊予大洲に移ってきた。

 大洲に姜沆(カンハン)が連行された折には、藤堂高虎が藩主の頃だった。

藤堂高虎は城づくりの達人として知られる。「宇和島城、大洲城、今治城など多くの城の改修や築城に携わり、その巧みさと城の堅固さから、築城の名手として讃えられた。」(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

 元は、近江国犬上郡(現、滋賀県)出身。この人も領地を点々とした武将で、最後は伊勢国津藩32万国の大名に上りつめた。

 大洲に着いた、姜沆はそのときの様子をこう記す。

「伊予洲の大津城に着き、留置される、二人の兄や妻の父の家族、家人とは家は同じであったが(中略)蛮夷の絶域の中にあって、兄弟がずっと一緒に居られるというのは、せめてもの幸せであつた」

 

 大洲城下にあって、姜沆の心情を伝えるのが、市民会館の入り口付近に建つ、「鴻儒姜沆顕彰碑」である。1990年3月11日に建立されている。

 裏面には、「近世日本思想史に大きな影響を与えた 儒学者 姜沆の伊予での七言律詩」とやや大きな文字が刻まれている。

 次に、その七言律詩の白文と読み出し文が上下8行にわたり描かれていた。最初の2行だけ記す。

  錦帳名郎落海東 

  絶程千里信便風

 

 (読み下し文)

  錦帳の名郎 海東に落ち

  絶程千里 便風に信(たよ)る

 

 意味するところは、はるか離れた日本に捕われ、頼りとするのは、そこはかとない祖国の噂や消息である。これは大洲から南に30里離れた金山出石寺の僧が差し出した扇子に書いた詩である。姜沆と出会い、心情を聞いて心を痛めた。大変礼遇して、詩を求めたという。

 祖国を離れても、王への忠誠心を片時も忘れず、威儀を正して生活するものの、こころは祖国に飛んでいる。はやく我を返せ。という趣旨の詩である。

 大洲での事件は、未遂に終わった逃亡・脱走であった。倭京(京都)から逃れて来た、日本語が達者な祖国の人(朝鮮人)と逃亡途中に出会った僧の計らいで、船に乗って豊後に向かおうとするが、沿岸にたどり着かないうちに、追手に捕まってしまう。

 その後、城下に連れ戻され、処罰を受けずに済んだが、「ますます無聊」であったと姜沆は『看羊録』に書いている、