藤堂高虎軍に捕らえられた姜沆一家が、日本に連行された経過は、以下の通りである。

1597年

9月23日 霊光の沖あいで、一家ともども藤堂高虎の水軍の手の者に捕らわれ、

子の竜(リョン)、娘の愛生(エセン)がみぎわにうち捨てられる。

 

 船は順天を出て1昼夜で安骨浦に着き、翌日の暮に対馬島に至り、風雨のため二日留まる。その翌日の暮に壱岐島に着き、また翌日の暮に肥前州に、次の日暮に長門州の下関に、更に翌日の暮に周防州の上関に着きました。更に翌日の暮に伊予州の大洲県に到着し、そこに留置される。10月初めごろだった。

  

※大洲=愛媛県下一の長流・肱川のほとりに栄えた城下町。鎌倉末期に伊予国守護・宇都宮房豊が築いた地蔵ヶ岳城が大洲城の始まりといわれ、その後、多くの城主が入れ替わり、明治維新までの約250年は加藤氏6万石のもとで発展した。明治・大正期には養蚕や製糸で栄え、今も職人と商人の町らしい土蔵やなまこ壁の町並みが残る。市制50年の2004年9月1日には大洲城天守閣が復元完成、戦後復元された木造天守閣としては日本一の高さとなる。

肱川の臥龍淵にある景勝地・臥龍山荘(国の重要文化財)は元々、江戸時代に造られた藩主の遊賞地である。明治時代の貿易商、河内寅次郎がこの景色に惚れ込み、名職人を呼び寄せて10年の歳月をかけて改築した傑作の山荘として知られる。

 臥龍山荘の近くに、ドラマのロケ地となった「おはなはん通り」がある。江戸時代の町割が残る小路の北側には商家や蔵が、南側には武家屋敷が建ち並び、往時を偲ばせている。

 

(逸話①)長浜に上陸し、大洲に徒歩で向かった。途中、浅瀬を渡るとき、疲労のため川の中で転倒し、溺死しそうになった。そことき、岸上の日本人が、彼の手をとって引き上げた。「ああ、なんとひどいことを。太閤はこの人たちを捕らえてどうしょうというのか。天道もないのか」といって、家からもってきた食物と茶をすすめた。「倭奴の中には、かくも至性(誠)の人があるのか」と、姜沆は初めて日本人を見直した言葉を発した。

(逸話②)ここに着いてみますと、わが国の男女で前後して捕われて来ている者が実に千余人にものぼり、新しく(虜われて)来た者は、朝晩巷に群をなして哭き叫んでいたのであります。以前に(虜われて)来た者(壬辰乱=「文禄の役」の時)は、半ば倭(人)になってしまっていました。帰(国しようという)計(画)も絶えていたからでありましょう。

 

1598年

1月 新年を大洲で迎える。5日、下の兄の娘、礼媛(リユウォン)病死。続いて7日、仲兄の子ども、可喜(カヒ)も病死。

4月末ごろ 捕虜某と帰国を図る

5月25日 脱出して板島(宇和島)まで逃れるが、結局捕らわれて大洲の連れもどされる。このころ城下の僧と交遊

4月27日 亡母の法事を営む。このころ、出石寺の僧、好仁と交遊。「方輿職官」を筆録す

る。

6月、大坂に送られ、すぐまた伏見に移送されて軟禁、伏見に抑留されている同国人たちと交流。藤原惺窩らとの交遊も始まる。