姜沆(カンハン、1567~1618)は秀吉の朝鮮侵略のとき、藤堂高虎軍に捕らえられ、四国・大洲(現、愛媛県)に抑留された朝鮮王朝の文官である。日本に抑留された4年間、移送された京都・伏見で藤原惺窩(せいか、1561~1619)に朝鮮朱子学を教えた功績が大きく、「日本朱子学の父」といわれる。

 その足跡を追うと、全羅南道・霊光から南原、四国・大洲、京都という長い道筋が浮かび上がってくる。かつて韓国のKBSテレビが人気番組「歴史スペシャル」のなかで、姜沆を紹介した。そのときのタイトルは「壬辰捕虜体験記『看羊録』」―士大夫、姜沆は日本に何を残したか」というものだった。その取材行で、長い道筋をたどっている。

 

 私もたどってみようと思った。そこで、東洋文庫にある、姜沆の『看羊録』を再び開き、姜沆が日本抑留された足跡を確認し、まずは大洲(愛媛県)に渡ってみようと計画している。

 九州から四国へ、どういうルートをたどるか。フェリーを利用するしかない。私の故郷、佐賀関には三崎(愛媛県)間を走る九四フェリーがある。70分で三崎に就くが、そこからが不便である。バスの本数も少なく、JR八幡浜駅まで遠い。

 もう一つ、臼杵と八幡浜を結ぶフェリーがある。佐賀関から臼杵は近いし、臼杵からフェリーに乗れば、2時間20分で八幡浜に着く。市街地も近い。そこからJRを利用すれば、大洲まで20分ほどで行ける。

 そこで、臼杵に向かうことに決めた。

 

 大洲を知る上で、参考になる書物がある。司馬遼太郎の『街道をゆく』である。そのシリーズ14に、「南伊予・西土佐の道」があり、それに大洲が出てくる。

 「大洲はいいですよ」「私が昭和三十年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造り上げた景観の美しさに息をわすれる思いがした」

 このように、司馬遼太郎は書いている。

 

 姜沆が私にとって身近なのは、姜南周先生(カンナムジュ、1939年生まれ)とのお付き合いが長いからである。姜南周先生は民俗学、韓国文学を専門にする学者だが、詩人として韓国では名前の知れた方である。あるとき、姜沆の子孫(第16代目)であることを聞いて、驚いたことがある。

 姜南周先生は国立釜慶大学第2代総長を務めたとき、グローバル化に対応した大学改革を行い、同大の存在感を国内外にアピールした。総長時代に、日本、とりわけ対馬(長崎県)の高校に呼び掛け、同大への留学を盛んにした。

 

 退任後は、朝鮮通信使文化事業会の会長に就任し、朝鮮通信使を通じた日韓交流に乗り出し、そのなかで、行政を動かして釜山に「朝鮮通信使祭り」を誕生させた。釜山文化財団代表理事も務めている。
 姜南周先生との付き合いを通して、私は姜沆に興味を抱いた。それを『プシャフの旗印を掲げ』(梓書院)というブックレットにも盛り込んだこともある。