北朝鮮には、建国の父子、金日成、金正日の巨大な銅像が立つ。これは近代という歴史の一断面で、分断国家以前、英雄として讃えられている歴史上の人物は数多く存在する。国による侵略で勇名を馳せた武将や義兵、封建制度や当代の政権に反対して戦った「農民戦争」の指導者などをあげることができる。

 銅像が立ってしかるべき先人は、次のような英雄であろう。おそらく北朝鮮はもとより、韓国にも立っていると思うが…。

 隋の113万人の軍隊を退けた乙支文徳(ウルチムンドク)や、唐との戦いで名声を馳せた淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)など高句麗の武将や、高麗時代、契丹軍の侵略をうけたとき、これを撃退した姜邯贊(カンガムチャン)将軍、そのもとで女性の身ながら少年先鋒将となって、大きな手柄を立てて戦死した雪竹花(ソルチュクファ)などは、「民族性」とともに「地域性」もあるヒーローである。

 

 乙支文徳や淵蓋蘇文は、時代が求めた人物であり、国家の危機に際して、身を挺して戦って、国を守った。

そこで、乙支文徳について紹介したい。時代が求めた人物は、後の世にも影響をもたらす。

 

 6世紀末、隋の煬帝の高句麗遠征軍を撃退した武将が乙支文徳である。伝えられるところでは、平安南道甑山(ジュンサン)軍亀村の石多山の、ある農家に生まれたという。彼は幼い頃から乗馬、弓矢にすぐれ、剣と槍の用法にたけていた。また、そればかりでなく、性格は沈着剛毅で、すぐれた智略をそなえ、書を広く読み、詩もこなしたといわれる。

 

 高句麗では毎年3月3日、平壌の楽浪丘で狩猟大会を開く。これに優勝した人は官吏に登用され、重く用いられることになっていたので、その日は国をにぎわす大きな祭りともいえた。実は乙支文徳も、この大会の優勝者として登用された人であった。

 

 高句麗の建国以来、なんどとなく中国軍の侵略をこうむり、ときに国家存亡の危機に陥ったが、その度、巧みにこれを撃退した。ときの高句麗王、嬰陽(ヨンヤン)王は598年、隋の遼西を討った。

 煬帝の即位後、嬰陽王は藩属国の礼を欠いた。これを怒った煬帝は611年から614年にかけて将軍の宇文述と干仲文に9軍30万5000の兵をもって、高句麗を討たせた。

 隋軍が鴨緑江に達すると、乙支文徳は王命に従って隋軍の虚実を探ろうと、隋軍に偽って投降した。隋軍は乙支文徳を高句麗に戻したが、すぐにスパイであることに気付き、乙支文徳を追撃した。乙支文徳は、隋軍を疲弊させようと戦っては退いた。隋軍は平壌へ30里の近くにいたって駐屯した。

 

 そこで、乙支文徳は干仲文に詩文を贈って戦功のすでに高いことを讃え、宇文述には軍を引けば高句麗は降伏するであろうと偽った。宇文述は兵の疲弊がはなはだしく、平壌城を陥落させるのが難しいことを知って、軍を撤退させた。

 これを見た乙支文徳は、四方から隋軍を追撃し、薩水(サルス、現・清川江)の戦いで勝つと、隋軍の壊滅は否応なく進んだ。昼夜の敗走の果てに遼東に帰還できた兵は、わずか2700人であった。

 

 史書では、乙支文徳を「救国の英雄」と讃え、今日の韓国・ソウルの乙支路(ウルチロ)の通りは、乙支文徳を追慕して、1946年に名付けられたものである。