年の瀬、対馬に行ってきた。1994年初めて渡海してから、今回で85回目である。その目的は、新著刊行に際しての写真・資料収集である。渡海する前日、東横イン厳原に予約をいれたが、「満室です」と断られた。韓国人観光客で満室という。結局、市役所近くのホテルに泊まったが、行ってみると、そのホテルは閑古鳥が鳴く状態だった。

 

 対馬には、韓国から、また日本からも移住する人もいる。知る範囲では、知り合いの元大学教授が飲食店をやっているし、通訳・観光ガイドを中心に企画会社を起こした人もいる。どちらも韓国人と結婚した日本人女性の意志が大きく働いていると聞く。対馬北端の比田勝で、民宿を営む元釜山日報記者(男性)もいる。独身なのか、妻帯者なのかは、知らない。

 変わった日本国内からの移住者として、在日コリアンが愛知県から上対馬町に移り住み、農業と果樹栽培を始めている。4月、朝鮮通信使・日韓友情ウオークで一緒になり、「近く対馬に移住します」と聞いて、吃驚した。

 

 移住するには、土地柄を知らないといけないし、韓国人ならば日本語が堪能であることが求められる。

 言語を学ぶこ、習得することは大きな意味をもつ。

 それを自ら実践し、外交に生かした先覚者が江戸時代、対馬藩で対朝鮮外交に深くかかわった雨森芳洲(1668―1755)である。そこで、屈指の開明派である雨森芳洲を通して二国間関係をかんがえてみたい。

 

 芳洲が残した言葉として知られるのが、「誠信交隣」である。現代の言葉でいえば「誠信の交わり」となる。1990年に来日した韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領が宮中晩餐会の答礼で行った雨森芳洲を称える演説で、広く浸透した。

 

 芳洲22歳のとき、師匠の儒学者・木下順庵の薦めで、対馬藩に出仕した。芳洲31歳から外交実務を担当する朝鮮方佐役の就き、数々の業績をあげていく。当時、対朝鮮外交は「筆談外交」だったが、それを芳洲は「ことばを知らで如何に善隣ずや」と言って、釜山で3年間留学し、朝鮮のことばを習得するために学んだ。

 44歳と51歳のとき、朝鮮通信使の真文役として対馬から江戸までの往復の旅に随行した。61歳で、藩主に上申した『交隣提醒(ていせい)』に、誠信交隣という現代にも通じる外交上の心構えを説いた。

 

 芳洲は言語の習得から入って、異文化理解を深めていった。芳洲にとって、「言語を学ぶとは、一民族の文化の総体を学ぶことに等しい。両班と常民(サンミン)といった朝鮮独特の身分制度、寒食、秋夕といった年中行事、食事の献立、女性の装身具、衣服、冠婚葬祭、あらゆる事象において、日本にはないもの、日本とは違うものに出くわすことになる」(上垣外憲一『雨森芳洲』より)。芳洲は言語学を踏まえ、外交官の道を極めた。

 1703(元禄16)年、35歳のときに釜山倭館に3年間、滞在して朝鮮語の勉強に励んだ。「命を五年縮め候と存じ候はば、成就せざる道理やあるべきと存じ、昼夜油断なく相勤め候」。その成果として、朝鮮語の学習書16冊が完成したが、なかでも『交隣須知』は明治初年に外国語学校でも使われた朝鮮語教科書の原型となった。

芳洲にとって、釜山での3年間は貴重なものだった。晩年に書いた『交隣提醒』に面白いエピソードが記されている。

 

 対馬藩邸に出仕したての22歳の頃、江戸藩邸に在勤の面々が話をすることには、朝鮮人ほど鈍なものはない。炭を運んで来る炭唐人というものが、炭をもって来ない時には、その手に印を押して明日持って来いと言えば、翌日には必ず炭を持ってきて、その印をとってくれるように願う。大勢のことで誰ともわからないのだから、自分でその印を洗い落としてもわからないのに、必ずそうするのがおかしい。

 これを聞いた芳洲は、朝鮮人が鈍であるというのではなく、文禄・慶長の役の「余威」が強いためだろうと思った。

 

 日朝間に、過去何があったか。その歴史的背景を念頭にした芳洲の卓見である。ものごと、事象を複眼的にとらえ、分析する。このことがいかに大事なことであるかを、この話は伝える。