時代の波に翻弄させられた女性がいる。釜山で、朝鮮王朝第26代王・高宗の4男、純宗の異母弟である李垠(イウン)と結納まで済ませていた女性である。しかし、約束を裏切られ、上海に渡ったのちに、母国に帰り、釜山で世を去っている。閔甲完(ミンガブワン)という。一時、皇太子妃にまでなった。

 閔甲完の悲話は、釜山で聞いたこともなかった。韓国を併合していた、植民地時代の話である。

 李垠と閔甲完は、李垠が日本に留学する直前に結納を済ませていた。揀択(カンタク)とは王子や王女の配偶者を選ぶ制度で、親の一存で決められてしまう。親の目にかなった皇太子妃という地位を獲得した閔甲完だったが、不運にも、それが現実とはならなかった。

 純宗は大韓帝国第2代目の皇帝として即位すると、英親王を皇太子に冊立し、居住場所を徳寿宮から昌徳宮の移した。在位は3年1カ月と短く、1926年に死去する。純宗の死後、李垠は形式的だが王位継承者となり、李王と呼ばれた。訃報を聞いたとき、李垠は留学という名目で、日本に人質として渡っていた。教育係は伊藤博文である。

 日本に留学した李垠は、梨本宮方子(まさこ)姫と結婚する。方子姫は昭和天皇が皇太子であったときの、皇太子妃第一候補であった。それが、なぜ…。横槍を入れたのは山県有朋で、彼の強硬な横やりに皇室は屈したようだ。二人の結婚は日鮮融和、皇民化政策の模範とするための、政略結婚であった。

 この報を聴いて、閔甲完は落胆したはずだ。ましてや、朝鮮総督府が破婚を迫り、他人との結婚を強制したことも、彼女を絶望の淵に落とし込んだと思う。結局、閔甲完は密かに上海に亡命した。しかし、健気にも独身を通して、李垠への思い、皇太子妃としての思いを貫きとおした。

 解放後、弟と祖国に帰り、釜山の弟の家に寄寓して晩年を過ごし、世を去っている。なんとも、聞くに堪えない物語が、釜山に刻まれていた。