「対馬に行き、先祖につながる興味深い話を聞きました。元寇ですよ。モンゴル軍が攻め寄せたとき、東北へその難を逃れた人たちがいた。東北の安東水軍が助けてくれて、津軽半島に定着します。その子孫が、姓を名乗ることができるようになった明治時代、一族で相談して付けた姓が『津島』ですよ。我々は元々、どこから津軽にやってきたのか。おおもとは対馬ですよ。だったら姓もそれに決めようと、『津島』にしたそうです。作家の太宰治の家も、そうです。彼の本名は、津島修治ですね。生まれたのは青森県の金木村。家は地方きっての大地主。太宰治は、第10子の6男として生まれいる。父親は有力な県議会議員でした。私も金木生まれです」

 

 そんな話を札幌で、市議会議員から聞いた。元寇襲来の当時、これを知った安東水軍は「対馬や壱岐の人々を助けねば」と、何と津軽からはるばる援軍を出して玄界灘へと向かい、対馬や壱岐で人々を保護し、津軽まで連れ帰る。

そんな歴史がある。青森の郷土史家の間では、よく知られた美談である。

 

 余談になるが、太宰治は、大柄な男であり、それを本人も気にしていたというエピソードなど、昨日読んでいた金達寿の『日本の中の朝鮮文化12 奥羽出羽』で見たような気がして改めて探したが、該当部分が出てこなかった。もしかしたら、司馬遼太郎の『街道をゆく38 オホーツク街道』だったのかも知れない。太宰治は余りにも人間的である。作品を読めば分かる。39歳のとき、玉川上水に愛人と共に入水自殺している。

 

 政治家に、厚生大臣などを務めた元衆議院議員(自民党)の津島雄二氏がいるが、彼の夫人は太宰治の長女、津島園子氏である。雄二氏の長男が津島淳氏で、父親の後継者として政界入りし、衆議院議員(同)を務めている。「津島」姓を語るときに、欠かせない人たちである。

 

 江戸時代、朝鮮外交で、通信使を迎え入れるため、対馬藩が度々国書改ざんを行っていたことが、江戸詰めの藩家老、柳川調興(しげおき)が暴露した事件があった。家光将軍の時代である。対馬藩は大揺れ。厳しい取り調べで、関係者の中には処刑になった犠牲者も少なからず出た。お家廃絶か? 幸い、朝鮮外交を代々、家役としてきた対馬藩の重要性を幕府は配慮し、結局は暴露した柳川調興とその一派が処罰された。調興は津軽流罪となる。外交僧の規伯玄方(きはく・げんぽう)は盛岡に流された。

 

 この国書改ざん事件でも、対馬と津軽がつながっていることは、安藤水軍の美談との関係で何か暗示的な気がする。

 札幌で、対馬の話を聞き、東北や北海道を身近に感じた。